大阪ビルヂング(ダイビル)最後の雄姿篇



 

左・右:甲麓庵歌會関東例会の面々が上洛してきたので、2009年6月6日、いよいよ秋には閉鎖され破壊工事が始まることに決まってしまった重要文化財級の名建築、大阪ビルヂングの最後の姿を撮影するため、皆で中之島へ向かった。阪神電車福島駅で下車し(阪神なんば線開通に伴う三月のダイヤの大改正で福島駅は急行が停まらなくなったので、野田で普通に乗り換えた)、なにわ筋を南下したのだが、途中にすごい名前のたこ焼屋があった。



 

左:提燈もこの通り。
右:龍丸が早速購入。結構美味しかった。左はラ・リュミエール女史。



 

左:当サイトでも何度も取り上げている、大阪ビルヂング(ダイビル)正面ファサード(北面)。田蓑橋から堂島川越しに見たところである。茶色いスクラッチタイル張りの大きなビルが本館、その隣の白いタイル張りのモダンなビルが新館である。背後のうんこ色の醜悪な汚物は放射能汚染で人類滅亡を目論むガミラスの如き悪の秘密結社関西電力のアジトであり、関西電力こそが悪辣極まりない姦計を弄し、都市の文化を全て破壊しようとしている悪の組織である。また、新館の隣に見えるインターチェンジ脇のラブホテルか田舎の国道沿いのパチンコ屋にしか見えない下品なバラックは「中之島ダイビル」。本物の第一級の文化財を破壊することにし、その代わりに建てたのがこれなのである(-公- ;)。
右:醜悪なものをできるだけ避け、その代わりに水面を広く取ってダイビルの本館、新館を撮影。今更であるが、本館は1925(大正14)年、巨匠渡邊節の設計で建てられたもの。東京の丸ビル亡き今、大正期の大規模オフィスビルとして現存する最後のものであり、どれだけ貴重なものであるかはいうまでもない。隣の新館は渡辺の弟子であり、戦後の日本建築界で「東の丹下健三、西の村野藤吾」と呼ばれるようになる重鎮村野藤吾の若き日の作品で、1937年に建てられたモダニズムスタイルの名品でこれまた貴重なものである。



 

左:何枚撮っても、どれだけ眺めても飽くこのない、本当に美しい建築である。
右:あまり語られることのない新館だが、巨匠村野の戦前期の作品として非常に貴重である。



 

左:田蓑橋の親柱。現在の橋は1965年に架けられたものだが、この親柱は恐らくその先代、1929年に架けられたときのものを活かしていると思われる。
右:大阪商船(現商船三井)が建てただけあって、船を思わせるアールが特徴となっている。水面からの景観を大いに意識した、秀逸なデザインといえよう。



 

左:北西、やや鋭角になっている角。
右:本館と新館。ダイビルが竣工した頃、大阪は「大大阪時代」の只中であった。明治以降の近代化による社会構造の変化により、この頃には「都市文化を支える層」として、新たに「無産中流階級」が台頭してきた。つまり、それまでの「有産中流階級」=「中産階級」に替わり、旧制大学や旧制高等専門学校などで高等教育を受け、大企業や官庁などに勤める「サラリーマン」がまとまった層となり、社会に影響力を与えるようになってきたのである。無論「中流階級」といっても彼らはまだまだ少数派のエリートで、「無産」とはいえ庶民とは隔絶した裕福な生活をし、女中の一人ぐらいは雇っていたのだが、それでも「ブルジョワジー」とは違う「市民階層」の誕生は、当時の社会と都市文化に大きな影響力をもたらし、「エロ・グロ・ナンセンス」「モボ・モガ」「プロレタリアート芸術」など新しい都市風俗を生み出したのも殆どがこの新興階級であった。当時、東京よりむしろ先端を行っていた大阪でも勿論無産中流階級は大きな勢力となっていて、この「ダイビル」をはじめとする「ビルヂング」はモボや断髪のモガが闊歩する、「大大阪」を象徴する建物だったのだ。彼らは「細雪」の舞台である阪神間など郊外にハイカラな文化住宅(数寄屋造りの母屋の玄関脇に三角屋根の洋館が付随するスタイルが代表的)に住み、私鉄で都心に通勤し、ダイビルなど「ビルヂング」のオフィスで働いたのである。ダイビル前にはサラリーマンを乗せようとする円タクが集まっていたという。つまりダイビルは「現存する大正期の大規模オフィスビルとしてほぼ唯一のもの」である上、巨匠渡邊節の代表作の一つであり(渡辺作品はダイビルより新しい日本綿業倶楽部=綿業会館が既に重要文化財になっているのだ!!)、建築史上貴重なだけでなく、近代都市史の上でも、社会史の上でも、大変重要な生き証人なのである。これを守れない国が先進国面し、文化国家を名乗るなどということは許されない。



 

左・右:新館の向かって左隣が、「中之島ダイビル」である。85年前に建てられた「本物」を破壊するのに、その「ちゃちなレプリカ」で済まそうというのだから、これはもう「人間としての美意識の壊滅的な欠陥」の持ち主の仕業というほかない。あまりにもひどい。すぐ近所の、新・大同生命館は「大正期のヴォーリズ設計の旧・大同生命館の意匠そのままで高層化した」ものである。全体の統一感がある。しかし中之島ダイビルは、「何の美意識もなく、とって附けたように、申し訳程度に、入口だけロマネスク風にした、つぎはぎの張りぼて」以外の何ものでもない。ラブホテルや遊園地の張りぼてのほうがまだ、それなりの主張があろうというものだ。



 

左:田蓑橋南詰交叉点から見た、ダイビル本館。
右:本館と新館の玄関付近。日本離れした美しい景観である。



 

左:歩道も広い。二階外壁にずらっと並ぶ照明ランタンの迫力。歩いているのはラ・リュミエールさん。
右:西側にある通用口。堂島川の氾濫に備えてなのか、防水扉が設置されている。狐のレリーフがあり、傷んでいるがモルタルで丁寧に補修されている。重役クラスに馬鹿しかいない潟_イビルらしいが、現場の人々がこの建物をいかに愛して、大切にしていたか、ここを見るだけでも十分によく解る。皆さん、さぞかし悔しいことだろう。



 

左:狐のレリーフ。実に可愛い。
右:床のタイル。渡辺節の真骨頂である。



 

左:この頃既に多くのテナントが泣く泣く退去させられていたのだが、まだまだ地理一つない状態に保たれていた。
右:美しい手書きの書体。



 

左:タイルの床。
右:ジントギ(人造大理石研ぎ出し仕上げ)の床。



 

左:中庭に面した窓。
右:投下式郵便ポスト。これは最上階の八階である。



 

左:アーチがあしらわれたエレベータホール。エレベータは向かい合って三機ずつ、計六機が客用として設置されていた。別に貨物用が西南側に一機あった。
右:エレベータホールから廊下へ続くアーチ。



 

左:この「御案内盤」も相当な年季物である。
右:アーチを抜けると、豪奢な八階廊下に出る。この部分は、当初はビル内各社の社員のための会員制倶楽部だったとの由。当時の「サラリーマン」の優雅な日常が偲ばれる。



 

 

上四枚:倶楽部部分の細部。



 

左:奥が新館、坂を下って本館である。
右:廊下の隅は大理石であった。



 

左・右:新館エレベータホール。奥に投下式郵便ポストが見える。新館の客用エレベータは三機で、奥の角を右に入ったところに貨物用が一機あった。



 

左:新館の御案内盤もやはり年季物。僕が写っている。
右:新館の投下式郵便ポスト。本館のものはペンキで塗りこめられているが、こちらはピカピカに磨かれた真鍮であった。



 

左:大正末の建物である本館の郵便ポストが左書きなのに、昭和に入ってからの新館のものが右書きなのが面白い。
右:大理石が貼られた廊下の壁面。



 

左:大きな洗面台、大きな鏡、大きな朝顔。全て舶来品だろう。これら全てが失われてしまう。
右:自動水洗が大半となった今、タンク式の水洗朝顔も懐かしい。



  

左:罅焼の壺のように美しい罅が入っている。
右:個室の仕切りは大理石板であった。



 

左・右:和式の大便器だが、入ってから、振り返ってしゃがむようになっている。変わった設置方向である。TOTOの前身、東洋陶器の古いマークが見える。



 

左:梁がアーチになっている廊下。
右:新館貨物エレベータ前の床。二色のジントギが使われていた。



 

左・右:各階から投函できる仕組みなので、途中階の郵便ポストはこのようになっている。



 

左:それを撮影している龍丸。
右:新館のエレベータ呼出釦。



 

左:新館から本館を見る。本館のほうが若干低い。
右:新旧境界から本館を見る。



 

左:本館廊下。
右:本館非常階段。



 

左・右:本館非常階段。



 

左:本館非常階段。
右:非常階段の扉。取っ手がピカピカに磨かれている。



 

左:本館の空き部屋が喫煙室に使われていた。
右:喫煙室内部。天井が非常に高く、一部が後付の空調によって低くなっているのが判る。



 

左・右:喫煙室内窓側。



 

左・右:喫煙室の窓は光庭(中庭)に面していた。



 

左:喫煙室の窓から見たダイビル中庭側外壁。
右:本館五階の御案内盤。



 

左・右:本館五階の郵便ポスト。本館の郵便ポストも全階にわたってペンキを塗られているわけではなかった。



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