骨董建築写真館 九州篇・其ノ弐
骨董建築写真館

九州篇・其ノ弐

本編では、「九州篇・其ノ壱」に引き続き、2002年3月の九州旅行の際の写真を紹介したい。まずは城下町臼杵である。

 

左:臼杵は古い城下町だけあって、旧市街を歩くと実に味わい深い街並み、建物が続く。右端の赤いのはこの旅行のあと2002年7月より伯爵邸の書生になり、同年10月からはこのサイトの共同管理人にもなった風太である。
右:登録有形文化財に指定されている造り酒屋、野上彌生子文學記念舘。文豪野上女史の生家である。

 

左:中心部、トキハ百貨店臼杵店の裏で見つけた木造三階建ての大規模な商家。現役の酒屋であった。
※2006年5月12日追記:トキハ臼杵店は2006年2月をもって廃業したとのこと(T_T)
左:桜祭の開幕を翌日に控え、既に散り始めている臼杵城の桜。

 

左:臼杵城址。城山に登ってみると上は平坦であった。
右:桜吹雪散る臼杵城。

 

左:古い町には大抵古い看板や標識の類が残っているものではあるが、こんな変な標語は始めて見た。よほど遅刻の多い街なのだろうか?
右:ちょっと洒落た半洋風の歯医者さん。

 

左:かつて臼杵藩の家老の屋敷の門だったという重厚な長屋門。現在は病院になっていて、前頁の「定時に集まるよい会議」の標語が貼ってあった。
右:山手に上がって、旧武家屋敷街を歩いていると、静かで実にいい感じ。この小路は入ってみると行き止まりであった。

上:上の袋小路の奥に、空き地があって紫の花が咲いていた。かつての武家屋敷の址らしい。

 

左:同じ小路のブロック塀。蔦が美しい。
右:いい感じに寂びた釣瓶井戸。

 

左・右:小高い丘の上に、大正時代の素敵な洋館が美しく残っていた。数寄屋造りの本館の玄関脇に一間の小さな洋館を附設する、大正時代の典型的な“文化住宅”である。地方の城下町にも大正浪漫の風は吹いていたのだろう。当時としては大変ハイカラでモダンな家だったはず。風太によると、映画のロケにも使われたことがあるそう。参照⇒<増補>

  

左:山手から坂を降りると寺町にでて、少しにぎやかになる。この琺瑯看板、「醫院」ではなく「医院」だから戦後のものではあるが、それでもまだ市内局番のない時代のものである。
中:城下町だけあって、各宗各派の寺院が一通り集まっているらしい。
右:このような風情ある坂道が随所にあった。

 

左:寺と武家屋敷の街並みに、これも大正時代のものか、瀟洒な洋館が大切に使われていた。
右:武家屋敷、寺町を抜けると町人の町に入り、がらっと趣が変わる。この商家は現役で、なかなかいい味を出している。

 

左:狭い路地に沿って時代を経た木造建築がずらっと並んでいる。
右:よく手入れされた建物も多いのだが、これなど完全に廃墟と化していて、それはそれで実に趣き深い。

 

左:丁度隣が取り壊されて駐車場になっていたので、同じ廃墟の裏手に回ってみた。煉瓦塀があるので、大正時代ぐらいかと思われる。
右:壁の破れ目から内部を撮影。

 

左:これはまだ廃墟というほどではない、掃除すればそのまま住めるであろう空家。ぼろぼろのカーテンを気に入ってシャッターを切った。
右:現役でちゃんと使われている大きな商家だが、屋根が相当に波打っていた。

 

左:古い商店の入口に貼ってある「郵便切手類印紙賣捌所」の看板。これは恐らく戦前のものであろう。
右:臼杵はやたらと歯医者の多い街、というのが三人の印象であった。この歯科医院はそんな古いものではないが、一見1930年代風でちょっといい感じである。

 

左・右:恐らく昭和戦前期のものか、小さいながらもなかなかに素敵な教会があった。臼杵カトリック教会である。

 

左:臼杵カトリック教会の聖堂内部。元々キリシタン大名大友宗麟が拓いた城下町なので、キリスト教とは縁が深い土地柄なのである。
右:野上彌生子女史が東京で過ごした世田谷の旧邸が臼杵の海岸に移築されている。小規模ながら瀟洒な、すごく住んでみたくなる素敵な洋館である。登録有形文化財。

  

左:庭に入り、側面を撮影。大きな出窓の内側はリビングルーム、二連アーチのバルコニーと、絵に描いたような美しさ。
中:リビングからバルコニーに出る扉。上部はアーチを描き、菱形の窓には水色のオパールセントグラスが嵌められていた。
右:玄関の窓にはステンドグラスが用いられている。

 

右:ここからは別府である。定番の観光コース、地獄めぐりなんかもやってみた。これは海地獄で風太と伯爵との記念撮影である。(KEN撮影)
左:このように鮮やかな青色なので、海地獄と呼ばれるそう。

  

左:海地獄にて温泉卵を作っているところ。
中:海地獄に附設されていた赤い池。
右:こちらは血の池地獄である。確かに赤い。

  

左:血の池地獄のトイレ。観光地のトイレにしては新築でやたらに綺麗だったのだが、なぜだか入口の「男」「女」の表示がなく、紙に書いて貼ってあるので笑ってしまった。
右:そのすぐ隣は、間歇泉の龍巻地獄である。これは噴出していないところ。

  

左:噴出中の間歇泉、龍巻地獄。
中・右:湯煙で見にくいが、坊主地獄である。ここだけ別府地獄組合に加盟していないらしく、共通券が使えない(僕らも全部回る訳ではないので共通券は買わなかったが)。そのせいかどうか、ほかの地獄は団体客で賑わっていたのに、ここは僕らの貸切状態だった。一番地獄らしい地獄でいい感じだったのだが。

  

左:地方を旅すると、このような古い琺瑯看板に出会うのが楽しみの一つである。下の方にあるのは比較的最近の金融業者の広告。
中:別府という都市は大変規模の大きい温泉街で、湧出する温泉量も半端ではないようだ。マンホールや道端からも平気で湯煙が上がっている。ということで、奈良に行けば奈良ならではの「鹿に注意」の道路標識があるが、この「噴霧注意」の道路標識などまさに別府ならではのものであろう。
右:別府の各地獄は、坊主地獄以外は結束して組合を結成しているようだ。すごい名前の組合もあったものだ。

  

左:別府市は神戸に似た坂の街で、ちょっと行くとすぐに山の中に出る。これは外湯めぐりをしていた時、明礬温泉郷の湯ノ花採取場の近くで発見した謎のオブジェ。鳥居型の櫓を組んで、三十センチぐらいの長さの鉄道レールがぶら下げてあり、それを叩くためのハンマーも設置されている。つまり兎に角レールを叩いて音を出すという用途らしいのだが、それが何のためだかさっぱり判らないのだ。
中:なんだかすごい名前の旅館があったので、走行中の車内から撮影。三号線に次ぐ九州第二の幹線国道、十号線沿いである。
右:高さ百メートルを超すビーコンタワーという塔もあるのだが、こっちはレトロな風情が売りの別府タワーである。これも雨中の車内から撮影。

 

左・右:別府温泉の象徴、竹瓦温泉。別府温泉の外湯の中でも最も古く、もっとも大規模なもの。入り母屋造りに唐破風の玄関を持つ重厚な建築で、松山市の道後温泉本館と相通じるものがある。表に立ってるのは瓦斯灯で、赤い丸ポストも見事にマッチしている。明治の初期に竹葺きという珍しいスタイルで建てられたのが名前の由来だそう。昭和初期の改修を経て、現在に至っている。

 

左:竹瓦温泉の内部は明治の香りが漂う。普通の浴場のほかに砂湯もあって、僕はそちらに入ってみた。700円だから超お値打ちである。
右:旧別府電話局(現別府市立児童館)。別府カトリック教会の撮影中、偶然に発見。登録有形文化財の証標は掲示されているものの、その時点では由来は全く判らなかった。しかし僕の鑑定眼も大したもので、見ただけで「元は電話局、建築家は吉田鉄郎」と見抜いてしまう。後で調べてみたら案の定その通りで、我ながら驚いてしまった。京都の中京電話局とよく似た雰囲気で、逓信建築、中でも吉田鉄郎の作風がバリバリに現れていたのだから、仮にも近代建築史を専門にする僕なら判って当然ではあるのだが。竣工は1928(昭和3)年である。参照⇒京都篇<増補>

 

左・右:別府市には大分市より近代洋風建築が多い。これは別府市野口町の野口病院。赤い三角屋根が超かわゆい、モロに伯爵好みの病院であった。恐らく大正時代の建物だろう。横に新館も建てられ、この旧舘も中を綺麗に改装され、実に大切に使われている。雨模様であったのでちょっと鬼気迫る雰囲気になっているのも伯爵的には超グッドであった。
※2004年3月25日追記:やはり大正建築なり。設計は不祥なるも病院創立時、1922(大正11)年の竣工にて、登録有形文化財の由。写真追加⇒<増補><増補>

  

左:野口病院の側面。木の手摺のバルコニーなどあって、すっごくお洒落である。
右:別府カトリック教会。かなり規模の大きなゴシック様式の伽藍である。しかし戦前の近代洋風建築かと思いきや、戦後の現代建築だった。1950年竣工である。これだけ質の高い様式建築が戦後に建てられているとは素晴らしいことだ。設計者はこれも吉田鉄郎とのこと。モダニズムの旗手の彼は決して教条主義者ではなかったようで、教会建築については戦後に至ってもゴシック様式を駆使している。

    

左:聖堂入口上の、クワイア(聖歌隊)ギャラリー。ただしこの教会は正面祭壇にパイプオルガンが設置されているので、実際に聖歌隊がここで歌うことはあまりあるまい。
中:聖堂内の正面祭壇。小型ながらパイプオルガンも設置されている。
右:附設幼稚園の園庭から見た聖堂の側面。本格的なゴシックで、鐘楼には組鐘(チャイム)も備えられている。ちなみに近年あちこちで「カリヨン」が設置されているが、実はその大半は「チャイム」である。どちらも組鐘のことではあるが、カリヨンというのは大体2オクターブ以上の音域を持つものをいう。

  

左:大正五年創業の老舗パン屋、「友永パン屋」。美しく手入れされているが創業当時のままの建物で、パンも大変に美味しかった。
中:そのすぐ隣にも、古武士のような風格のある大衆食堂が現役で頑張っている。
右:これは大分市。大分名物とり天、とり南蛮の老舗、「いこい」である。kenちゃんお勧めで風太と三人で行ったのだが、量は異常に多いし超安いしもちろん美味しいしで、すんばらしい店であった(^o^)。JR日豊本線鶴崎駅から徒歩すぐのところ。

 

左:「いこい」のショーケース。洋食屋さんの王道といったメニュー構成である。
右:手前がとり南蛮、奥左がとり天、奥右がとり天葱ソース。いずれもご飯つきで500〜600円、それも超満腹になる量であった(^o^)。お箸を持っているのはkenちゃんである。

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