骨董建築写真館 九州篇・其ノ壱
骨董建築写真館

九州篇・其ノ壱

2002年3月末、もう三年の付き合いになる旧友のKEN(20)を訪ね、九州を旅した。本編では大分、別府を中心にそのときの写真で構成してみたい。

 

左:朝九時十六分に神戸・三ノ宮駅発の新快速電車に飛び乗り、あとは延々山陽本線を乗り継ぐこと約十時間、ようやく北九州の門司駅に到着、kenとその親友の風太(20)という二人のゲイ友と合流し、まずは“門司港レトロ”地区を見て回る。暗い上に雨だったのでよく見えないが、この写真はこの地区の再開発に伴って建設された門司港ホテルである。
右:北九州市とは姉妹都市らしい中国大連市から送られた、旧租界時代の煉瓦の洋館。今は国際友好記念図書館として用いられている。オリジナルは明治35(1902)年に帝政ロシアが東清鉄道汽船会社事務所として建てた独逸風の建築である。レプリカではあるが、鉄筋コンクリートではなくきちんと煉瓦を積み上げて造られているので、伯爵的には評価が高い。

 

左:波止場に沿って瓦斯灯が設置されていた。
右:伯爵の“変なものセンサー”が早速反応。閉店していたので食べられなかったが、オイスターのソフトクリームってどんなだろう?

 

左:チューダーゴシック様式の三井門司港倶楽部。設計は松田昌平、大正十年(西暦1921年)の建物である。
右:門司港レトロ地区のシンボル、JR門司港駅。とにかく暗くてよく判らないが、ぼんやりしているのは噴水のせいである。1914(大正3)年竣工の国指定重要文化財なり。追加⇒<増補>

 

左:大正初期の木造建築、門司港駅の玄関部天井を見上げる。中心飾りは美しいが、何の変哲もない蛍光灯がぶら下がっているのはちょっと興醒めである。
右:門司港駅コンコース。大切に使用されていて美しいが、とにかく照明を何とかして欲しい。左端、青いダンガリーシャツはkenである。

 

左:自動券売機の表示だが、わざわざ旧漢字を使っている。でもここまで凝るのであれば右から左に「機賣券動自」として欲しい。
右:待合室の入口。この扉もなんと自動ドアである。

 

左:コンコースを出て、改札手前の空間。この部分は吹き曝しである。左端の青いシャツはken、kenの後ろに半分隠れている赤いシャツが風太。
右:コンコースに二本立っているドーリア式の円柱。基壇部分の真鍮が美しい。

 

左:同じ柱の基壇部アップ。
右:改札よりプラットホームを臨む。

  

左・中・右:水回り三景。いずれも大正時代そのままである。蒸気機関車時代には、煤煙にまみれた顔を洗う乗客が列をなしたのであろう。
※なお、門司港レトロ地区については「九州篇・其ノ七」に増補してある⇒<増補>



 

門司港を散策した後、雨の中九州自動車道をすっ飛ばし福岡市へ。JR博多駅で僕のメル友みさおくん(19)と合流するが、かなり可愛い。まずは本場物の博多ラーメンを食す。そしてシーサイド百地の遊園地でプリクラを撮ったりした後、博多のゲイタウンである住吉へ。kenちゃんの行きつけである「オーバーオール」というゲイバーでラストまで飲んだ。kenちゃんはかなり飲んだので、僕がハンドルを握り(今年初めての運転であった)久留米へ。みさおくんを送って、あとは三人で大分に向かう。途中“道の駅”で仮眠して、運転をkenちゃんに替わってからが上の写真である。
左:欄干に柿のオブジェが載っている橋を通った。恐らく名産品なのだろうが、何の変哲も芸もないコンクリートの欄干にいきなりかなりリアルな柿というのもシュールな光景である。
右:九州電力女子畑水力発電所の建物や導水管。大正二年竣工とあるから、当時としてはかなりモダンな印象の建築だったろう。


 

左:天ヶ瀬温泉の露天風呂にて。両岸の河原に何ヶ所もの露天風呂があり、なかなかにいい感じ。手前の箱に100円を投入して早速に入浴した。この写真は入浴後に撮影。左が風太、右がkenちゃんである。
右:奇妙な形状の伐株山(きりかぶやま)。大昔巨人が切った巨木の切り株が山になったという伝説があるとのkenちゃんの解説により、車中より慌ててシャッターを切った。

 

左:湯布院温泉の金鱗湖。歩いても一周十分もかからないような池で、ちょっと湖を名乗るのはおこがましい感じだが、なかなかに美しい。湖底からは温泉が湧き出しているとかで、ところどころ湯気が上がっている。
右:この茅葺屋根は、金鱗湖畔の共同浴場“下ん湯”である。入浴料二百円なりで、本日二度目の入浴と相成った。外から丸見えなので女性はちょっと入れない。

 

右・左:由布院盆地を見下ろす高台に建つ、廃墟マンション。通称“幽霊マンション”で、九州では大変有名な心霊スポットとのこと。ってゆーことで、怖がって車で待つというkenちゃんを置いて、風太と二人早速探検に乗り込んだ。どうやら完成からそう間を開けずに放棄されたらしく、未完成状態ではないもののそれほど人の住んでいた形跡もない。
※2006年5月10日追記:2004年に解体されたらしい。

  

左:地下の大浴場。温泉地の高級リゾートマンションらしく、各戸の浴室の他に大浴場があったようだ。
中:ガラス窓がはめられ、絨毯が敷き詰められていた居住部の廊下。かなりの高級仕様だったらしい。
左:各戸はそれほど広くなかったようで、2DKといったところが中心か。これは室内に入り込んでの撮影。

  

左:エレベーターホールの落書き。かなり知的水準の低い作者の手にになるらしく、酒鬼薔薇聖斗を名乗りたかったのだろうが薔薇という漢字が書けなかったらしい(-_-;)。「バディ」創刊以前からゲイデビューしている世代のゲイなら、必ず書ける漢字なのであるが。
中:とうとう屋上まで上る。もちろんエレベーターは二機とも完全にスクラップと化しているので、階段を歩いて上ったのである。
右:更に塔屋のエレベーター機械室にまで上る。この廃墟はとにかく一切鍵というものが掛かっていないのだ。モデルは風太である。

 

左:エレベーター機械室の天井からは、コンクリートの石灰分が鍾乳石となって垂れ下がっていた。
右:屋上から見た由布院盆地の景観。

 

左・右:龍門の瀧。キャンプ場など整備されており、夏には瀧滑りの楽しめるそうである。

 

左:龍門の瀧に隣接する古刹、吉祥山龍門寺。禅宗の寺だが、臨済宗、曹洞宗ではなく珍しくも黄檗宗であった。京都・宇治の黄檗山萬福寺を本山とする宗派である。
右:苔むした萱葺屋根が実にいい味を出している可愛らしい鐘楼。もちろん鐘を撞いてきた。

 

右:大分市内のken邸に風太も一緒に一泊して、旅行三日目は城下町臼杵へ出かけた。まずは国宝として名高い臼杵石仏群である。丁度桜が美しく咲いていた。
左:このような石仏が小さな谷を挟んで沢山刻まれている。しかし臼杵の石仏といえば磨耗して首が下に落ちている状態で有名であったので、これはちょっとなんとゆーか…。平成に入ってから、国宝の指定を受けるに当たって全面修復されたのだが、その際首が落ちた状態のままで修復するか元通りに首を挿げるか大論争となり、結局復元派が勝利して、こうなったんだそう。僕的には首が落ちたままで修復して欲しかった。

 

左:このように、石仏群には屋根が架けられている。
右:地蔵菩薩と十王。彩色が結構残っている。十王に囲まれるのは普通地蔵ではなく閻魔大王なので、珍しい構図だそう。そして地蔵菩薩の半跏像も稀とのこと。

 

左:満開の山桜。素晴らしい快晴であった。
右:登口で貸してくれる竹の杖を持った僕とkenちゃん。ちょっとセピア調に加工してみた。伯爵はオーダーメイドのツィードスーツ姿。(風太撮影)

 

左:中央の大仏がよく観光ポスターにも用いられてゐた巨大仏頭の、修復された姿である。右側の脇持仏群を見れば判るようにこの磨崖佛は凝灰岩の地層に彫られ、胸より下の部分に特に柔らかい粘土状の層があるため、長年の浸蝕により頭部が落ちてしまっていたのだ。
右:丁度ベルトに当たる部分を境に上下で岩の質が全く異なる仁王像。

 

左・右:春爛漫の石仏の里。鐘楼は日蓮宗の古刹、紫雲山満月(まんがつ)寺のもの。いかにも山里の寺といった風情の長閑なところであった。梵鐘は新しいが、撞くと谷間に木魂してなんともいい雰囲気。田舎嫌いの伯爵だが、久し振りにのんびりした気分になれたといえよ〜。

 

左:満月寺本堂。千鳥破風の下、つまり妻側が本堂正面になっているのはわりと珍しい。神社建築では妻側が正面であることは少なくないが、寺院ではあまり見かけない。
右:同寺の開祖である上人も磨崖佛となっている。肖像彫刻が磨崖佛というのも珍しかろう。右が施主の炭焼小五郎夫妻(真名野長者)、左が蓮城法師である。どちらも伝説上の人物。

  

左:山門も塀もない同寺であるが、山門に当たる位置に凝灰岩製の古い仁王像が立っている。これは吽形。
中・右:こちらは阿形。

  

左:満月寺の門前から石仏のある方向を臨む。屋根が掛かっているのがそうである。
中・右:有料公開されている石仏群のほかにも、このような磨崖佛が点在している。このあと、城下町である臼杵市街の散策に行くのだが、それは「九州篇・其ノ弐」で公開することにして、ひとまず「九州篇・其ノ壱」はここまでとさせて頂く。

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