京都篇其の拾七(伏見稻荷大社と伏見區~國立博物舘)
左:2008年12月2日、僕がプロデュースした一大芸術イベント「南海摩登博覧会」のため関西入りしていた龍丸、ラ・リュミエールさん、洋子ちゃんと一緒に、稲荷信仰の総本宮、京都市伏見区の伏見稲荷大社を訪ねた(僕はクリスチャンなので「詣でた」のではない)。関西では「様」は田舎言葉として忌み嫌われるので、神仏に対しても「観音さん」「えべっさん」「八幡さん」「御釈迦さん」「お稲荷さん」「イエスさん」である。決して「お稲荷様」とは言わない。そしてお稲荷さんといえばお地蔵さんとともに街角でよく見かける「小祠」であることが多いのだが、ここはさすが総元締めの「大社」だけあって、破格に大きく立派な神社であった。明治時代に無茶な廃仏毀釈と神仏分離が行われたが、元々の日本の宗教は神仏習合であり、例えば豊川稲荷はその名残といえよう。この伏見稲荷大社が神道であるのに対し(しかし伏見稲荷大社は神社本庁非加盟神社である)、伏見とともに稲荷信仰の一大中心地である豊川稲荷は妙厳寺という曹洞宗の仏寺なのである。
右:お稲荷さんだけあって、いたるところに狐がいた。しかもなかなか立派なのが多かった。
左:狛犬ではないので、阿吽ではなかったが、咥えているものは違った。
右:拝殿。
左:拝殿前にて、ご機嫌の龍丸。
右:お狐さん。また違うものを咥えてあらしゃる。
左:逆行で甚だ撮りにくかったが、能舞台があった。
右:拝殿の奥に連なるのが本殿。
左:社務所も立派な建物である。唐破風の玄関を覗けば、寺院風に見える。
右:この子は垂れ目で可愛かった。犬のようである。
左・右:伏見稲荷大社の境内は広大で、裏山も丸々神域である。何千何万の赤い鳥居が連なる道が延々と続いていて、人気がなければ異界への入口のような、妖しい雰囲気となる。実際、街中の小祠でもお稲荷さんは他の神社やお地蔵さんとはちょっと違う、独特の雰囲気がある。ましてやその本拠地なのだから、このぐらいで当然なのだろう。しかし、修学旅行生はじめ参拝者が非常に多く、日中はなかなか異界の雰囲気には浸れない。
左:どこまでいってもこの調子。ところどころ分かれ道があるのだが、その両方がこれまたこうなっているのだ。
右:何とも不思議な狐像があった。由来などはどこにも書かれていなかったので、詳細は不明。
左:分かれ道もこの調子。どっちも延々と鳥居のトンネルである。
右:しかも道しるべには、いずれも「奥の院へ一丁」となっている(笑)。
左:人がいないと妖しさ倍増でいい感じ。
右:キツネ型の絵馬。顔を描きいれるようになっていてなかなかユニークである。
左・右:こんな感じ。ゴルゴ13みたいな狐までいる(笑)。
左:後姿はラ・リュミエールさんと龍丸。
右:鳥居の外側はこんな感じ。大半が木製で、結構早く朽ちるらしく、新しく奉納されたものが少なくない。
左・右:あちこちにお稲荷さんが祀られていて、道に建てるほどではない小さな鳥居が山ほど奉納されていた。壁に打ち付けて「立小便禁止」にするのに適当なサイズである。
左:何軒も茶店があり、そのどれもがいい雰囲気だった。但し自動車道路はなく石段を登るしかないので、物価が高いのは致し方ない。プロパンガスボンベを配達する兄ちゃんとすれ違ったが、かなり大変そうであった。
右:いい雰囲気に苔むした鳥居。
左:ここはちょっと怖くてよかった。「地獄少女」のラストシーンみたいである。
右:山中、至るところに猫もいた。狐と違って生身のほうである。野良らしいが、どの子も人馴れしていて、しかもよく太っていた。可愛がられているのだろう。
左:同じにゃんこ。きゃわゆい。
右:道は更に奥へ、奥へ。後姿はラ・リュミエールさんと龍丸。
左:もう言葉が出ない。とにかくすごい数の鳥居。
右:茶店。
左:立ち寄りたかったが、ラ・リュミエールさんの帰りのバスの時間があったので、先を急いだ。
右:といっても延々と石段なので、そんなに速くは登れない(笑)。
左:いかにも神域らしい、すごい木の根。
右:電話が局番なし、三桁なので、相当に古いと思われる琺瑯看板。
左:ほのぼの系の注意看板。
右:同じような写真をずらずら並べることで、鳥居鳥居鳥居の迫力を少しでも体感してもらいたい。
左:獣は火を恐れるはずなのに、獣ですらない鳥の烏が蠟燭を咥えて飛ぶとは!!
右:大きな琺瑯看板があった。
左:12月とはいえ暖かな日で、ここまで登ってくると汗ばむほどであった。で、いい感じに涼しげな茶店があったので一本買おうとしたら、「それは実はあまり冷えてないんで」と奥の冷蔵庫から持ってきてくれたσ(^◇^;)。あくまで見た目重視の演出だったのだ。
右:京都盆地が一望の下に見渡せた。
左・右:もう十二月なのだが、まだ紅葉が綺麗だった。
左:奉納者の名前と奉納年が読み取れるが、いずれも平成になってから。しかし既に褪色している。
右:何とも気高く気品のある茶寅にゃんこがいた。あまりに可愛いのでカメラを向けても、撮りおえるまでずっとこのポーズでいてくれたのだ。そのあと、「うまいこと撮れた?」とでも言わんばかりに石段を下りてきた。いやもう、すごく可愛い。
左:モデルを終えて、床机の下にもぐりこむ(笑)。
右:すぐ近所に、もう一匹ふかふかにゃんこがいた。
左:鳥居と紅葉の赤が相乗効果であった。
右:木製と違い、石鳥居は古いものも残っている。「二代目大一小天一天嬢」だろうか? 明治のものであった。
左・右:いずれも同じ鳥居。明治45年4月17日に建立されている。「奇術総長」「正天一」とあるから、有名なマジシャンだったのだろうか? さすがに検索しても出てこなかったσ(^◇^;)。
左:同じ鳥居をもう一枚。
右:どこまで行っても行けども行けどもこの調子。
左:見事な紅葉。そして様々な石碑があったが、全て神格を現すもので記念碑ではなく、祀られている。稲荷神とは様々な神格が習合したものというが、実際彫られている神名はまちまちであった。
右:尻尾が折れてしまった可哀想な子狐。
左:白狐が仕えているからには、この石碑もお稲荷さんなのだろう。
右:西川六兄弟。何とも男の子ばかり大勢生まれたもんだ。
左:登ったり下りたり、結構大変である。歩いているのはラ・リュミエールさん。
右:作業小屋みたいなところもあった。
左:「薬力の瀧」があった。稲荷信仰は古来修験道とも密接に結びついていたらしい。
右:これがその「滝」。何とも拍子抜けだが、しかし修験道の行場の滝、実際にはこういうのが多い。
左・右:稲荷山全体が伏見稲荷大社の境内なのだが、これはその中の薬力の滝の境内。一応柵で仕切ってあったので、そういってよかろう。そこにもこのように小さな神々がたくさん祀られているのだが、なぜだか「カール」が二つずつお供えしてあったのに笑ってしまった。
左:同じくカール。
右:眼力の神さんもいた。
左・右:眼力さんの手水鉢の狐さん。何ともすごいポーズで、「やってもうた」感が漂う( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \
左:木漏れ日の木立の奥に赤い鳥居の列が垣間見える。何とも幻惑的な光景であった。
右:素晴らしい骨董時計のある茶店。
左:眼力さんの名前の入った幟。
右:これも伏見稲荷の境内末社ということになるのだろう、腰神不動明王の境内にあった、コンクリート像。開基だったか篤信家だったか、とにかく夫婦の像ということであった。神社の境内にお不動さんなんだから、これも神仏習合である。
左:足腰の神さんなのに、バリアフリーではない。その代わり親切な注意書きが。
右:素朴な手書き看板。
左:もう、適当に名づけて石碑を建てたとしか思えないええ加減な神さんもあった。まぁ明治の神道統制で村々の素朴な神まで無理矢理記紀神話の神に比定していったほうがおかしなことなので、元々の八百万の神はこんな感じでいいのだろう。しかしどうしてパソコンの変換では「比定」という語が出ないのだろう? 辞書にも出てるし、学術用語としては普通に使う言葉なのだが。
右:これは可愛い。婚活ブームに乗じて売り出せば売れるだろう。これも境内摂社若しくは境内末社なのだが、独自に社務所も持っていて立派な神社であった。
左・右:これはもう、伏見稲荷大社の外である。大阪・石切神社の参道には「コバンザメ宗教」が無数に生息しているが(1月3日参照)、ここもその類らしい。鬼法教という教団である。
左:社家だろうか、ちょっと洒落た青瓦のお宅があった。
右:ということで、無事下山して参道に戻る。土産物屋にあった可愛い狐さん。
左・右:宗教法人伏見稲荷大社の本部らしき建物なのだが、いかにも万博前後と思われるモダニズム建築であった。
左:お京阪伏見稲荷駅から続く参道。
右:京阪電車の踏切脇にある、何ともいい味わいの土産物屋さん。おばさんも親切であった。
左:駅前の和菓子屋さん。
右:名神京都深草バス停から高速バスに乗るラ・リュミエールさんと別れ、龍丸、洋子ちゃんと三人で歩いて洛中を目指す。伏見区内はこうして琵琶湖疏水に沿って歩いた。
左:星のついた橋脚。かつて師団司令部があったからだろうか?
右:橋の親柱。大正12年である。
左:同じ橋。横縄橋という名であった。
右:京阪電車のガードをくぐる。
左:京阪電車の下の疎水。豊かな流れである。
右:疎水べりに何ともけったいな建物があった。
左:何しろこのように、非常にプロポーションが悪いのにイオニア式の列柱があるのだσ(^◇^;)。
右:疎水に架かる橋は人道橋が多いのだが、これは自動車も通れる大きなもの。
左:疎水を遡ると、鴨川のすぐ東岸を流れるようになる。この水門は、増水時に余分な水を鴨川本流に落とすためのものだろう。煉瓦造で古いものである。
右:何だか木の実が生っていた。対岸は有名な東九条地区で、改善住宅が見えている。
左:こんな狭い河岸も歩いた。奥に見えている高架道路は九条通り。右(東)へ進むと大きく北へ曲がり、そのまま東大路になるのである。
右:高架道路上に、京都市電の架線鉄柱が残されている。
左:路上観察系のサイトなどでよく話題になる「キリスト標語看板」。何でも東北の方の狂信的福音主義教団が貼ってまわってるらしいが、こんなもん布教に逆効果以外の何ものでもない。実に迷惑な存在である。ともあれ、そういう事情で東日本によくあるらしいが、我々関西人には実際に眼にする機会はまれである。それが高架道路の下にあった。
右:高架道路沿いの踏切だが、実はこれ、二つの踏切を同時に収めた写真である。お分かりだろうか、手前に見えているのが国鉄奈良線で、その向こうが京阪本線である。いずれも遮断機が下りていて、二つの踏切の間に軽自動車と原付バイクが停車しているのだ。見えている電車は京阪の最新鋭3000系で、恐らく中之島行き快速急行である。
左:高架道路の歩道から下りてくる階段。戦前に作られた古い道路なので、年季が入っていていい感じ。
右:伏見区を出て、東山区に入った。当初の予定にはなかったのだが、思い立って東福寺にも寄った。さすがにピークは過ぎていたが、まだまだ紅葉が美しい。
左・右:いずれも東福寺の通天橋を臨む。
左:東福寺付近にて。とてもいい雰囲気の住宅が並んでいた。昭和初期ぐらいに開かれたのだろう。
右:そして境内に入る。天気がよくて、紅葉が映える。
左:東福寺にて。境内に数多の堂宇、塔頭が並ぶ大寺で、臨済宗東福寺派大本山、京都五山の一つである。僕は仏教の中でも禅宗が特に嫌いなのだが、龍丸は大伽藍に感動していた。確かに同じ禅宗でも鎌倉など関東の寺と比べると、でかいことはでかい。なお、京都五山の四位(五山の上である南禅寺があるので、実際の序列は五番目)であるが、五位であった万寿寺は現在では東福寺の塔頭になってしまっている。また塔頭の一つ明暗寺は虚無僧で知られる普化宗の本山で、今でも明暗流尺八の本拠地となっている。
右:そして「紅葉の名所」だらけの京都にあっても屈指の名所である。
左・右:菊の紋章がついた唐門があった。細工が滅茶苦茶細かい。つまりごてごてしていて下品である。まぁそれが禅宗である。茶道も禅宗だから下品なのだ。
左:禅宗様式って結局のところ全てこけおどしで、要するに突っ張ってるヤンキーと変わらず、単に悪趣味なだけなのだが、紅葉は美しい。
右:国宝の山門。室町時代の建物である。「古ければいいというものではない」というほかない。
左:1934年竣工、実は近代建築である本堂。天井画は堂本印象画伯の龍であった。昭和に入ってからなのに鉄筋ではなく伝統工法の木造建築であることだけは評価できる。しかしまぁ、同年竣工の築地本願寺のほうが面白いことは言うまでもない。
右:ここにも神仏習合、しかも伏見稲荷のような鳥居のトンネルがあった。
左:これは東司。室町時代に建てられた巨大な便所である。
右:とにかくでかい本堂。
左:本堂の脇に立てられた、方位が刻まれた石柱。
右:東福寺を出て、裏道を京都第一赤十字病院方面へ歩く。途中で見かけた、新しいのに結構ちゃんと作られた和風住宅。
左:東福寺境内に通じるらしき私道。
右:石垣と煉瓦のお洒落な塀。
左:昭和初期の建売住宅か? シンメトリーでいい感じ。
右:戦前のモダニズム建築、京都第一赤十字病院の裏手。パラペット的な部分にタイルの赤十字が見える。
左:赤十字をズームで撮影。
右:各地の赤十字病院、大阪も広島原爆も、名建築がことごとく破壊されてしまったが、ここはまだかろうじて戦前建築が生き残っている。どうか破壊せず大事にしてもらいたいものだ。
左・右:裏側にもかかわらず、非常にシンボリックな造りで感動を覚える。これも1934年の建物。
左:この時代の建物の地下は、半地下で明り取りの溝が掘られていることが多い。地下部分は石貼りのようだ。
右:これに感激せずにおらりょうか。円形の部分はナースステーションだったのだろう。
左:実に素晴らしい。
右:別棟。このように戦前物件がまだ数棟残っている。
左:井上HOMOGE牛乳の木箱を発見。ホモ毛って(笑)。
右:全面的に外装材で覆われてしまった洋館。壊すよりはましだが、しかし残念。
左:洋館付数寄屋邸宅もあった。
右:山が迫ってきて裏道がなくなったので、東大路に出る。古い商店街があった。
左:素敵な窓のお宅。たとえ建物は残っていても建具はサッシ化されたりすることが少なくないので、これは貴重である。
右:車の通れない裏道。
左:今熊野橋の親柱。なかなか素敵なデザインで、アール・デコっぽい。この橋は切り通しになっている国鉄線路(東海道本線・湖西線)を渡る東大路の橋で、よって橋の下は川ではない。
右:周囲の街並み。
左:近代建築サイトなど検索しまくってもなかなかヒットしない建物。およそお寺には見えない門だが表札は総本山智積院南門であるので、学校建築のように見えるが境内の堂宇ということになる。真言宗智山派宗務庁は京都市立芸大の校舎の再利用とのことだから、その門と建物なのだろう。
左:門前に、物凄く渋い画材屋さんがあった(残念ながら廃業)のも、芸大の校門前だということで納得である。
右:改装されているが、入り母屋作りの渋い商店。ここでパンを買って歩きながら食べた。
左・右:あまり宿坊らしくない宿坊、智積院会館の前の狛犬。日本のものではなさそう。
上:東大路を北上。これは東山七條、京都国立博物館の別館であるが、近代建築である。
左・右:同じく京博別館。昭和初期だろうか、装飾の薄い建物だが、細部にこのような意匠が見られる。
左:これもまた泣かせる昭和モダニズム、東山武田病院。元の京都専売病院で、なんと敷地内に名園「積翠園」があるんだそう。残念ながら年代、設計者とも不明だが、ひょっとして戦前かも。
右:東山七條を左折せず、ぐるっと博物館裏へ回り込むと、この寺に出た。大伽藍がずらっとある京都ではそれほどの規模ではないが、一般的に言えば「小さい寺」でもない、でもなんだか荒れていて、そして全く観光化されていない寺院である。
左・右:そして梵鐘がやたらとでかい。写ってるのは洋子ちゃんと龍丸。人物とサイズを比較してもらいたいが、滅多に見られない大鐘であった。一体何ぞやと思ったら、ここは豊臣秀吉が建立したかの有名な方広寺である。つまり、この鐘の銘に徳川家康が悪辣非道な因縁をつけたことにより、豊臣氏が滅亡に追い込まれたという、あの鐘である。そらでかいはずであった。
左:京都国立博物館の正面に回る。北隣に物凄い石垣があり、豪邸があるが、これも方広寺の遺構で、家は寺の庫裏らしい。
右:夜は京都国立博物館で日本テレマン協会のコンサートであった。ライトアップされた本館が美しい。