伊勢桑名篇T



 

左:2008年12月13日、マイミクのきょん姫、葉月女史、との爺教授と、三重県桑名市を訪ねた。まずは三岐鉄道北勢線西桑名駅。旧近鉄三岐線である。我が国では非常に珍しい、762mmゲージの軽便鉄道黒部峡谷鉄道と同じ軌間である。
右:入線してきた電車。このように可愛らしい。線路幅が非常に狭いのが判る。



 

左:しかし西桑名駅の改札は自動化されている。元々が近鉄の路線だし、名古屋通勤通学圏内なのだ。
右:電車は黄色がオリジナルで、広告ラッピングされているものもある。



 

左:駅前バスターミナルに、物凄くレトロなブリキ看板が生きていた。
右:その桑栄メイト。建物もお客さんも昭和の香りが濃厚である。



 

右・左:ビル内もひたすらレトロ。昭和な世界で実にいい雰囲気。



 

左:桑栄メイトの内部。渋い。
右:桑栄メイト外観。カトウ医院は屋上にも大看板を上げている。



 

左:いわゆる公団の都市型住宅に似たタイプのアパート。実際公団住宅かもしれない。
右:こんなにバス停を立てなくても( ̄□ ̄;)!!



 

左・右:非常に静かな銀座があった。



 

左:古い町家型の新聞舗。
右:屋根だけ景観に配慮したらしき建物。ここまでやられると新築なのかリフォームなのかすら判らん。



 

左:しかも「ポリエチレン製袋所」という極めて珍しい業種であった。
右:こちらは戦前の建物だと思しき古い醫院、中村医院。



 

左・右:中村醫院正面ファサード。庇と擬石の柱がモダンで、南洋植物が時代を感じさせる。



 

左・右:うらぶれた商店街の入口のようなアーケードで、実際ラーメン屋「天龍」もあるのだが、書かれている文字は「薩摩義士墓所」である。幕府に命じられての宝暦治水の工事で命を落とした薩摩藩士の墓所で、海蔵寺という禅寺である。



 

左:海蔵寺全景。庫裏の建増しが面白い。
右:桑名市は昭和レトロの宝庫であった。寺町商店街にて。「懐かし堂」と書いてあるので、お店のほうでもこの価値を理解して大事にしているようだ。いいことである。



 

左:城下町なだけに古刹も多い。これは信州大谷派桑名別院本統寺
右:商店街に、屋根に草の生えた商家があった。



 

左・右:マネキンが調素敵な水谷屋さん。



 

左:寺町商店街を抜けたところにある素敵な化粧品雑貨店、「祖父江」。いい建物である。
右:寺町商店街を見返る。



 

左:築五十年前後か、古い鉄筋のビルがあった。按摩指圧治療院だったが、恐らくもうやっていないと思われる。
右:その真向いには蔦に覆われた民家が。春日神社の近くであった。



 

左:これも同じ付近。とても渋い履物屋さん。
右:旧東海道、七里の渡し付近は料亭街となっていた。との爺教授が写っている。名古屋の熱田からここ桑名まで、東海道は「七里の渡し」といって海路になっていたのだ。今でもクルーズが行われることがあるようだ。乗ってみたい。



 

左:七里の渡しの料亭街。写っているのはとの爺教授と葉月女史。左端の句碑の説明は右の写真。
右:泉鏡花の「歌行燈」の舞台である。



 

左:これが句碑だが、風化していてさっぱり判らないσ(^◇^;)
右:木造を残しての増築だからまだ許せるが、ビル化した「山月」。



 

左:「山月」と共に有名らしい「船津屋」。
右:これももと旅館と思しき建物。



 

左:伊勢神宮一の鳥居から、七里の渡し船着場を見る。
右:今ではコンクリートの頑丈な堤防が造られていて、情趣に欠くが致し方ない。



 

左:水門の管理棟が桑名城の蟠龍櫓の形で建てられている。
右:復元された石段。



 

左・右:こんな感じ。内部は展望台で、二階建てなのにエレベータまであった。



 

左:このように、水門統合管理所というのが櫓の正式名称なのだ。
右:七里の渡しのところから揖斐川が引き込まれ、桑名城の堀になっている。



 

左:ミックミクにされそうな旅館があった。建物は渋い。
右:かと思えば、えらい変わった造りの民家もある。



 

左:「歌行燈・志満や」。ここで午餐を食した。右の人物はきょん姫。
右:掘割の石垣は相当古いものであった。



 

左:家の裏から直接石段で堀に下りられるようになっている。
右:タイル張りの、ちょっと遊廓っぽい旅館もあった。



 

左・右:七里の渡し=揖斐川河口から上流に向かって少しだけ歩いたところに、今日の目的地である六華苑旧諸戸清六邸がある。豪壮な長屋門なのだが、道路より少し低いところにあるのは、道路が揖斐川の堤防だからである。大変な豪邸だが、高台どころかゼロメートル地帯にあるのは、輪中ならではといえよう。



 

左:六華苑=東諸戸邸の説明。明治の山林王初代諸戸清六の四男で事業を引き継いだ二代目諸戸清六の邸宅として1913(大正2)年に竣工した大邸宅で、設計はかのジョサイア・コンドルである。なお、東諸戸邸に隣接して初代の次男で家督を継いだ諸戸清太の家系の邸宅、西諸戸邸が現存している。そちらは今も個人住宅なので普段は公開されていない。
右:六華苑の本館たる洋館。四階建ての望楼からは天気がよければ富士山も見える。



 

長屋門を入り、広くやや左に曲がった通路を歩いていくと、木立の向こうにこうやって建物が現れてくる。接客空間である洋館に正面玄関があり、右側に復元された和館に普段用の内玄関がある。今はこちらから入館するスタイルとなっている。



 

左・右:洋館の正面玄関。扉の窓はステンドグラスである。



 

左・右:塔の窓にはなんと曲面硝子が使われている。



 

左:ここにあるように、内玄関棟は復元されたもの。
右:骨董級の電燈スイッチ。



 

左・右:和館のトイレは純和風だがちゃんと水洗であった。



 

左:使用人用の板張り廊下。
右:その内側には、来客や家人用の畳敷きの廊下が。



 

左:座敷を挟んで反対側、庭に面するほうは縁側になっている。
右:二の間でも十二分に広かった。主室と二の間を備えた座敷が三セット揃っていた。



 

左:二の間の床の間。
右:三間続きである。炉が切ってあるので、茶事に対応できるつくりである。



 

左:縁側の硝子障子。古い硝子が残っていた。
右:鍵はこれだけ。非常に懐かしい。防犯上は心もとないように見えるが、当然、夜は使用人が全部雨戸を閉めるのである。これだけ廊下が長いと、毎朝毎晩大変だっただろうな。



 

左:照明と釘隠し。



 

左:全部合わせたたら一体何畳になるのやらσ(^◇^;)。座敷は十八畳、次の間は十四畳、鞘の間が六畳だろう。
右:床の間の意匠もそれぞれ違っている。



 

左:一の間(上の座敷)の説明。
右:桐の柾目の一枚板の欄間。



 

左:暗いが男子便所である。正面に朝顔が写っている。
右:波打つ古い窓硝子。



 

左:廊下の照明も洒落ていた。
右:蔵だらけの豪邸だったのだが、この蔵は母屋から直接入れるようになっていた。



 

左:蔵の中。本当に物置だったww
右:洋館の真裏に和館がある。従ってこの和館の主廊下を通ると、洋館の玄関ホールにつながるのだ。奥に見えている赤絨毯敷きの部分がそれである。



 

左:主廊下を端まで歩くと、洋館の玄関ホールに至る。
右:振り返ると、洋館から畳敷きの廊下につながっているのが判る。



 

左・右:洋館のトイレは西洋式。床のタイルが美しい。左側の窓は屋外ではなく、主に家人や使用人が通ったであろう、和館と内玄関を結ぶ廊下に面している。



 

左・右:塔の内部は当り前だが、こういう変形の部屋になっている。左から葉月女史、きょん姫、との爺教授。



 

左:一階応接室の説明。
右:何しろ広い部屋ではない。



 

左:塔一階の天井飾り。
右:正面玄関扉のステンドグラス。



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