骨董建築写真館 弐千五年関東下向記其ノ壱
骨董建築写真館

弐千五年関東下向記其ノ壱

二千五年の関東下向については既に第58章、第59章でも紹介しているので、これで三番目である。この章ではまず、六月二十五日から開かれた短歌結社「アララギ派」東京一泊歌会の時の写真から始めたい。

 

左:「アララギ派」一泊歌会、初日は墨田区の旧遊里巡りであった。向島花街の蕎麦屋「美舟音」にて昼食。一階で食せば筏に乗った蕎麦が流れてくる趣向なのだが、今回は大人数なので二階の座敷での会食。有名店らしく検索してみると色々出てきて大抵褒められているのだが、実際に食べた身としては「ん〜〜〜〜?」であった。まぁ事前に大人数分準備された宴会料理だったから、一階で普通に注文すればもっと美味しかったのかもしれない。建物は鉄骨プレハブらしく情緒もへったくれもなかった。
右:店主はセミプロ級の日本画家らしく、店内たるところ大作が飾られ、これは見事である。


上:向島から程近い「鳩の街」。今では普通の商店街だが、ここも戦後直後から新興の赤線として賑わったところである。


 

左:鳩の町商店街の入口付近。このとおりで、道幅はとても狭いのだが、時折車が入ってきた。
右:街灯の装飾に鳩がついている。


 

左:赤線時代からそのままの建物であろう古い写真館。
右:ポンプ井戸のある小広場。暑い日だったので井戸水が気持ちよかった。


 

左:これは娼舘だったのではなかろうか? 貸し物件の表示があったが、壊さずにこのままで借り手が見つかって欲しいものだ。
右:同じ建物。赤線廃止後は旅館になっていたようだ。


 

左:戦災でかなりやられたエリアらしいが、一部このように、震災復興期の銅張り看板建築も残っていた。
右:これは僕と同い年ぐらいだろう。骨董屋の店先に置かれていた、鉄製の車の玩具。プラスチック製品にはない味わいがある。


上:通りが狭いので全景は撮れなかったが、千鳥破風の古い銭湯があった。


上:和風のファンシーグッズが並んでいた。

上:古い商店建築。下はアルミサッシに変えられているが、天窓は昔ながらの木の建具である。


上:丹精された草花が多いのも下町の特徴である。


上:民家の玄関先にて。


上:手書きの看板もすっかり見かけなくなった。ペンキできちんと手書きできる看板屋さん、もう殆どいないのではなかろうか?


 

左・右:幸田露伴旧邸跡の公園。


上:鳩の街を逆戻りすると、行には気付かなかった非常に斬新なタイルの壁を発見。赤線時代のものだろう。


上:銅板で覆われた、震災復興期の看板建築。


上:商店街のパグ。とてもおとなしくて可愛かった。


 

左:鳩の街の入口付近の電柱に貼られた広告。ふざけた名前の歯医者である。
右:三囲神社の狛狐。なんだか人間のような表情であった。


上:「向島花街入口」の標識と古い町家。


上:有名な言問団子。空襲で焼けたからしょうがないのだが、情緒もへったくれもない鉄筋の建物で、美味しいが高かった。


上:その向かいにはこれまた有名な長命寺桜餅。こちらも鉄筋である。関東式の桜餅は四十歳にして初めて食べた。

鳩の街拔け墨堤に櫻餠   伯爵(※2006年3月14日詠・追記2006年3月21日)

 

左・右:二千五年六月二十七日、新宿区新大久保の韓国料理店にて「第二回伯爵さんを囲む会」が開かれた。これはその二次会で入った、とても古風なジュース屋さん。手作りでとても美味しかった〜♪ 




上:翌日は菊乃女史横浜を巡った。まずは似非希臘建築が建ち並ぶ脱力系商店街大倉山である。ギリシャと言うならもう少し気合を入れてもらわないと、かなり無茶苦茶なのだσ(^◇^;)


 

左:東京電車東横線大倉山駅前にあった大倉山記念館への道標。
右:商店街の街並み。上から下まで寸胴のジャイアントオーダーには泣かされた(^_^;)




上:とにかくこんな調子である。結構お金はかかっている。材質が新建材なのはしょうがないとしても、デザインはもう少し何とかできたと思うのだが〜。




 

左:何も支えていない付け柱の上に、なぜだか猛禽類の彫刻が載っていた。
右:この柱は下が細くなっている。「エンタシスでない」と非難してはいけない。この界隈のシンボル、大倉山記念館と同じプレ・ヘレニズム様式の柱なのだ。つまり、この商店街の似非ギリシャ建築の中では、まだしもちゃんと研究して建てられている、といえよう。




上:まぁこんな感じ、どこを見ても「ギリシャ風」なのだが、最近作った街並みなのに、早くも崩れつつあるようだ。




上:あまり何枚も貼りまくってもしょうがないのだが、小さいものから大きなビルまで、色々並んでいた。




上:一応二車線だが道は狭く、交通量はそこそこあって賑わっていた。

上:そして、これが大倉山散策のメイン、大倉山記念館である。僕にとっては映画「1999年の夏休み」の舞台としてとても印象深いが、そのほかにも様々な映画やドラマに登場している。1922(昭和7)年、長野宇平治の設計によって建てられたプレ・ヘレニズム様式の建物で、元の名前は大倉精神文化研究所である。丘を登っていくと、森の向こうに入口が見えてくる。抜群のロケーションで、庭では楽器の練習をしている人などがいた。




上:徐々に近づく。初夏だったこともあるが、森が鬱蒼としていてなかなか全体を見渡せない。




上:更に近づくと、意外な新しさを感じる。横浜市に寄贈されてから大改修されたとのことだが、そのせいだけでもあるまい。実は窓など彫が浅いし、また壁面も石でも擬石でもなくコンクリート仕上げだし、ジャイアントオーダーなども石積みではなく石張りである。巨匠長野の最晩年の作品は、プレ・ヘレニズム様式という世界的に見ても他に例のない様式を採用しているだけでなく、モダニズムの風もしっかりと受けた上で建てられているのだ。




上:正面の石段と玄関。ペディメント(破風)には鳳凰のレリーフが。柱が下に行くほど細いのが判る。




上:ペディメントと塔屋を見上げる。塔の柱もプレ・ヘレニズム様式であるのが判る。




 

左:玄関門扉と門扉周りの装飾。
右:玄関庇部分の天井見上げ。石が積まれているのではなく貼られているのが判る。




 

左:玄関の庇を支える柱は二重になっていて、表に四本、その奥にも四本の円柱がある。
右:開かれた玄関扉。




上:側面にも立派な玄関が設けられている。階段を上がった扉が一階で、下は地下に入る玄関。




上:ちょっと斜め方向から正面を見る。


上:塔屋のアップ。

 

左:正面ペディメントのレリーフはフェニックスではなく鳳凰である。
右:裏手に回って塔屋を見上げる。手前の低層部の付け柱も下が細くなっている。内部はアートギャラリーである。


 

左:正面玄関を入ると玄関ホールに華麗な大階段がある。石段を登って玄関に到達する近代建築の場合、元々の一階のことを現代では二階としているところが時々あるが、ここもそうで、この階段を登るといきなり三階になる。
右:階段の脇から見る。扉の奥、右翼部には今でも財団法人大倉精神文化研究所が入っている。


上:玄関ホールから塔屋の吹き抜けを見上げる。荘厳な雰囲気である。


上:同じところを角度を変えて。


上:二階(現三階)に登って。柱は一本一本猛禽と獅子が支えている。


 

左:同じところから、ホール入口を見る。
右:ホール入口の装飾の細部。


上:扉を入ると、八十席の可愛らしいホールがある。ピアノのリハーサルをしていた。


上:ステージの上部。内装は木製主体でちょっとライト調であった。


 

左:ホールの窓。
右:客席部の天井。


上:ぶれてしまったが木彫が細かい。三角形の窓がちょっと怪しい雰囲気をかもし出している。

上:階段ホールの作り付けの椅子。ちょっと教会の椅子のようなデザインである。


上:同上。


上:同上。矢鱈座る場所の多い階段室であった。


上:廊下のラジエターグリル。


 

左:中央階段ホールを見下ろす。
右:男子トイレの入口。立派過ぎる。


 

左:別のトイレの入口。「おす」がいい感じである。
右:衛生陶器はオリジナルではないが、タイルの床と大理石の仕切り板が美しい。


 

左・右:男子トイレの内部。


上:ひょっとしてこのカランはオリジナルかもしれない。そうでなくてもかなりの年季物である。


 

左:真鍮製の把手。デザインが美しい。
右:女子トイレ。なんと大理石の床であった。

上:寄木造の床。この奧の部屋で2006年2月5日、「甲麓庵歌会第二回関東例会」を開催した。


 

左:脇階段。三角形の窓がちょっとフリーメーソンを思わせる。
右:階段から見下ろした扉。天窓が面白い。


 

左:扉の造作が様々あって面白い。
右:玄関ホールの大階段裏手、地下へ降りる階段付近。この柱もヘレニズムスタイルである。


 

左:一階(元々は地階)の男女共用トイレ。タイルの床である。
右:廊下に無造作に置かれている卓も年代物。


 

左:このチラシ入れも骨董品。こういうものまでオリジナルが残っているのは珍しく、貴重である。
右:地下(一階)の保守点検用通路。機械室へ通じるらしい。


 

左・右:これも一階(旧地階)の廊下に置かれた家具。「受付用机」とでも呼べばいいのか。つまりカウンターの一種である。


 

左・右:脇玄関を外側から見たところ。ドアノブの「しめる」「あける」が可愛らしい。


上:玄関脇の読書室。一旦外に出て、周囲の公園を散策してから戻った。非常に暑い日だったので、ここで暫し涼んだのである。椅子の上に僕の旧一澤帆布(現信三郎帆布)のリュックサックが見えている。

 

左:大倉山駅から東急電車東横線に乗り、直通している悪名高い第三セクターみなとみらい線の元町中華街駅で降りる。菊乃さんの案内で、中華街で昼食にするのだ。日本のチャイナタウンは長崎、神戸、横浜、函館にあるそうだが、今でも南京町という古風な呼称を残しているのは神戸のみ。横浜も戦前は南京町と呼ばれていたそうである。
右:菊乃さんが子供の頃からよくいったお店の一つ、「同發」に入ってランチとなった。内臓メニューが珍しい。

 

左:「同發」の窓。そんなに古い建物ではないのだが、窓は木製サッシだし、天井も凝っているし、なかなかいい感じであった。
右:神戸・南京町は狭くて、商業地である。神戸華僑八千人のうち、実際に南京町に住んでいる人は少ない。それに対して横浜・中華街はとても広い。横浜華僑六千人のうち、かなりの人々が実際にこの街に住んでいる。よって住宅地でもあるので、趣のある路地が多い。


 

上:神戸では山手にある關帝廟も、横浜では中華街の中にある。火災に遭ったので、1990年に再建されたばかりの横浜関帝廟


上:関帝廟の門の上の龍の装飾は色硝子製とのこと。


上:關帝廟の本堂。参拝者が多い。


上:堂内は無茶苦茶に派手である。正面、赤い顔に長い髭が本尊の關羽像。


 

左:石の柱の彫刻が見事。
右:香炉の飾り。


 

左・右:菊乃さんによると、こういう古い建物もかなり減ってきたそうである。

上:戦災で戦前建築は殆ど残っていない横浜中華街、この「安楽園」も戦後の建物だそうだが、既に相当よい雰囲気に寂びている。


 

左:「安楽園」玄関。
右:そしてこれが、中華街一怪しい雰囲気をかもし出しているホテル、オリエンタル旅館である。現在も営業中なので、一度は泊ってみたい。あちこち検索した結果、エアコンがないが一泊五千円とのこと。


上:入口テント、正面には「旅館オリエンタル・中華街南門通」、側面には「東方酒店」と書かれている。


 

左:玄関扉も実にいい雰囲気。
右:こちらは「東方旅社」と書かれている。


上:南京町をあとにして、今度は山手の洋館群へ向かう。


上:ブラフ積みの石垣のある階段を昇っていく。


上二枚:小径は外人墓地に沿って続く。なお、神戸の外国人墓地は非公開であったが、2006年度から公開されることになった。

 

左・右:坂道を昇っていくと、横浜地方気象台がある。我が神戸をはじめ、全国の主な港町、長崎、舞鶴、函館には海洋気象台があるのに、神戸のライバル横浜は地方気象台しかないのが不思議である。そういえば、名古屋も管区気象台ではなく地方気象台だった。


上:アール・デコを更にシンプルにした感じの横浜地方気象台。塔のデザインもすっきりしている。1927(昭和2)年に神奈川県営繕管財課の設計で建てられた横浜市登録歴史的建造物(平成15年度登録)だが、なんとよりにもよって安藤忠雄が改修することになっているそう。最悪である#ノ-_-)ノ ┴┴


 

左:外人墓地の入口は丘の上にあった。
右:レストランになっている洋館、山手十番館。実は1967年に明治百年を記念して建てられたものだが、結構ちゃんと作ってある。


 

左:これ横浜で唯一現存する明治の異人館で、現在は山手資料館として使われている。1909(明治42)年に横浜・戸部の大工によって中澤邸として本牧に建てられ、 1929年(昭和4年)に横浜・諏訪町の園田邸に移された後、 1977年(昭和52年)に現在地に移築されたもの。よって場所はオリジナルではない。神戸の北野町、山本通辺りは明治期の異人館が多いのだが、横浜は関東大震災で壊滅しているので、現存しているのは殆ど昭和初期の洋館である。
右:迷惑なアメリカ人による放火で2005年1月4日に内部を焼失した山手聖公会。現在では修復されているJ.H.モーガンの設計で1931(昭和6)年に建てられた横浜クライストチャーチで、日本聖公会横浜教区の主教座カテドラルかと思いきや、横浜教区の大聖堂は聖アンデレ教会とのこと。なお、今回写真を撮っていないが、このすぐ近所には正真正銘の司教座カテドラル、山手カトリック教会がある。


上:修復工事中の痛々しい様子。玄関のチューダーゴシックアーチが見える。


 

左・右:同じく山手聖公会。


上:山手234番館。昭和2年頃、朝香吉蔵の設計で外国人むけ集合住宅「アパートメントハウス」として建てられ、創建当時は左右対称・上下2階の4戸だったとのこと。現在は市が運営するギャラリーなどになっているのだが、菊乃さんはこの使い方というか改装が非常にお気に召さないとのこと。確かに、大阪市中央公会堂のひどい有様と比べたらましではあるが、相当ピカピカにされてしまっていた。


上:正体不明。


上:上の写真と同じ建物。

上:これは日本に定住したボヘミア(チェコ)の巨匠、アントニン・レーモンドの作品、エリスマン邸潟戟[モンド建築事務所は現在も続いている。この可愛らしい住宅は1926(大正15)年にスイス人貿易商エリスマン氏の私邸として建てられた。元々山手地区ではあったらしいが、現在地には90年に移築されたとのこと。


上:エリスマン邸玄関付近。現在は資料館と喫茶室になっている。


上:エリスマン邸のサロン。椅子は復原かもしれないがオリジナルデザインのようだ。


 

左:本当はベーリックホールから先に中に入ったのだが、校正の都合上エリスマン邸の内部を先に載せる。いかにもモダニストレーモンドのデザインっぽい簡素なデザインの暖炉。
右:階段の装飾も、当時の盟友だったライトに通じるものがある。


上:そしてこれがベーリックホール。横浜山手の洋館群では最大の豪邸で、昭和5年(1930年)にJ.H.モーガンの設計で建てられた。その名のとおり元々は英国人ベーリック氏の邸宅であったが、1956年〜2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎としても使用されたとのこと。


 

左:ベーリックホール、壁面の泉水。
右:同じ部分。瑠璃色のタイルが美しい。


上:ベーリックホールの玄関は庭に面したテラスになっている。人が多くて避けてとるのが難しかったσ(^◇^;)


 

左:館内に入る。市松模様の床が斬新で美しい。スチーム暖房を被うラジエターグリルの繊細なこと。
右:なんか傾いた写真になってしまったが、食堂である。奧は暖炉。


上:玄関ホールから二階に上がる手階段。手摺は繊細な鉄製である。


上:玄関ホールより一段下がったところ、一階の大広間である。

上:同じ大広間を反対側から見る。一段低くなっていることと、南側がサンルームになっていることが判る。


上:サンルームの泉水。


 

左:玄関ホールにて。
右:一階食堂の暖炉。


上:手階段を上って二階へ。大抵の洋館がそうであるように、このベーリックホールも一階は主にパブリックスペース、二階はプライベートゾーンとなっている。


上:子供部屋の窓。なかなか凝った造りである。


 

左・右:家人がそれぞれ専用の浴室を持っている、相当贅沢な造りの邸宅であった。それにしても廃校になったセント・ジョセフ校はこの寮を全く改修改装なしに使っていたようだ。オリジナルがよく残っていて素晴らしい。


 

左:木の便座が懐かしい。そういえば、同志社大学アーモスト寮のトイレもこんな感じだった。
右:また主階段を通って一階に下りる。


上:使用人用の裏階段は地下にまで通じている。かつてのスチーム暖房給湯用のボイラーが残っている。

上:旧駐横浜英国総領事公邸、英国館。1937年に上海の大英工部総署の設計で建てられたとのこと。


上:同じく港の見える丘公園から見たイギリス館


上:道路に面した正門側から見た英国館。


上:英国館と同じく港の見える丘公園にある山手111番館。これもJ.H.モーガンの設計でアメリカ人ラフィン氏邸として1926(大正15)年に建てられた、スパニッシュミッションスタイルの洋館である。


上二枚:大きな吹き抜けがこの屋敷の特徴である。


上:大正時代の洋館の窓としては非常に珍しい、大きな一枚硝子。


上:愚かで悪辣な鉄道省東日本支社の陰謀により破壊の危機に瀕している、ネオロマネスクスタイルの美しい国立駅舎。幸いなことに国立市当局は保存の方向で国鉄と話し合っている(この頁を作成している2006年4月現在)。これも山手111番館と同じ1926年の建物で、設計は箱根土地株式会社の社員であったと伝えられている。


 

左・右:同上。

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