骨董建築写真館 さようなら甲子園阪神パーク&宝塚ファミリーランド篇(上)
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さやうなら甲子園阪~パーク&寳怎tァミリーランド篇(上)


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左:二千二年度いっぱいで、阪神間の二大遊園地、西宮市の甲子園阪神パークと宝塚市の宝塚ファミリーランドがその半世紀以上に亘る歴史に終止符を打った。どちらも大手私鉄資本による郊外型遊園地の典型であり、阪神間のみならず関西一円の市民にとって戦前より親しまれていた伝統ある大遊園地であった。阪神間「細雪」文化圏で生まれ育った僕にとっても子供の頃から最も慣れ親しんだ、思い出深い遊園地なのである。それが二つ同時になくなってしまうとは、子供時代の思い出が消え去ってしまうようで、非常に寂しい。僕の所属している学会、社団法人現代風俗研究会のフィールドワークとして、消えゆく二大遊園地を廻る会が催されたので、三月の氷雨降る非常に寒い一日、僕と風太(風太は阪神パークのみ)もカメラを持って参加したのである。これは阪神パーク。建物はボーリング場で、この建物に沿って左端が園の正門である。
右:正門からボーリング場に沿って通路を歩き、右に曲がって動物園となる。そこに立つ歴史のありそうな旗竿。


 

左:伝統的な遊園地にはつきものの、ビックリ鏡。
右:ボーリング場の廃ボールを利用したゲーム。


上:雨のため、屋根の下にずらっと並べられたコイン動物。これだけ並ぶと壮観である。これに乗って近所に買い物などに出かけたら楽しいだろうな、など馬鹿なことを言いつつシャッターを押した。今はどこか地方の遊園地にでも払い下げられたのであろうか。


 

左:年老いた二頭の雌印度象。僕が子供の頃、餌をあげたことのある象である。この二頭は千葉に新設された老象ホームで余生を送ることになり、その搬送作業はテレビのドキュメンタリーとしても放送されていた。涙涙であった。
右:既に誰?もいなくなったサル山(阪神パークでは“猿島”と称していた)。ここは日本猿のほかに雑種犬や猪も一緒に飼育されているので有名であった。阪神パークは震災後は本格的な遊園地として復活することはなく、入園無料の住宅展示場として細々と余命を保っていたのであるが、雨のせいか来場者も少なく、既に動物も少なく、非常に寂しく、悲しい雰囲気であった。

 

左:象舎全景。屋上には猿等の檻があった。
右:展望塔から見下ろした猿島と大鳥舎。


 

左:大鳥舎と猿島の外縁。
右:猿島の注意書。


 

左:大鳥舎の天守。
右:大鳥舎の細部。


 

左:展望塔。一階はレストラン、二階にはレオポンコーナーが設けられている。レストランのカレーは戦前からの名物、甲子園球場のカレーが用いられていた。
右:園内一周モノレールのセンター駅と車輌。

上:訳の判らない写真だが、展望塔二階の旧レオポンルームを裏側の窓からのぞいたところ。中の展示物の大半はちびっこホールで催されていた「さよなら阪神パーク」展に移動されがらんどうとなっていたのだが、猫科の猛獣のものらしい骨格標本が一体寂しく残されていた。ガラスに映りこんでいる人影は風太である。小さくするとますます訳が判らなくなるので、原寸で掲載する。


 

左:震災後は運転を停止していた、高さ60メートルの飛行塔。甲子園で生まれ育った僕にとって、子供のころから常に見上げていた、記憶の中に常に存在していた塔である。
右:飛行塔の周囲には、かつてはチェーンで塔から吊るされていたゴンドラが置かれている。


 

左:飛行塔の基部。周囲がコンクリートではなく石垣であるところに、この遊園地の歴史を感じる。
右:展望塔から見た飛行塔と大観覧車。


 

左:閉鎖されたチケット売り場も物悲しい。阪神パークだけに、マスコットキャラはトラッキーである。タイガース快進撃の2003年だが、この頃はまだシーズンも始まっていなかった。
右:普段は列車は停車しないモノレールの東駅と、大観覧車。

 

左:下から見上げた観覧車。とにかく寒かった。
右:乗ってみる。この観覧車ができたのは僕の記憶では1971年頃。当時としてはかなり大きな観覧車であった。


 

左:ついでに高いところからの写真を並べる。どちらも展望塔から。これは旧動物園エリアからボーリング場方面である。
右:真下のセンター駅。モノレールはSL型であった。


 

左:園内唯一の踏切。
右:駅に停車中の子供列車。


 

左:留置線に停車中の予備の客車。
右:野外演芸場。右隣のちびっこホールとともに、かつてはマジックなど数々のショーが催された。


 

左:野外演芸場の客席は芝生である。かつては大勢の家族連れの歓声や笑い声が絶えることなかった・・・。
右:蔦が絡まり、歴史を感じさせる演芸場ステージ。

 

左・右:野外劇場と象舎の間に、遊具の墓場と化している空間があった。


 

左:かつては沢山の動物舎が並んでいた界隈、今は若干のモデルハウスのほかは花壇と芝生になっている。
右:麒麟舎の主ももういない。


 

左:麒麟のだいちくんの帰る家はもうすぐなくなる。どうなるのだろうか?
右:フラミンゴたちはまだいた。


 

左:正門を出て、真向かいの甲子園球場を臨む。
右:阪神甲子園駅から阪神パークにかけて、旧電車道(甲子園筋)に沿って並ぶコンクリート製の動物像。これも僕が物心ついた時から見慣れた光景である。


 

左・右:犀と駱駝。犀のお尻の方の建物は阪神タイガースの独身寮だった旧虎風荘。今は空ビルになっている。

 

左:「阪神パーク歴史展」の会場となったちびっこホール。僕が子供の頃は演芸ホールという名前であった。これは東側から見たところ。恐らく戦後、阪神パークの復活時に建てられた建物であろうが、非常にいい雰囲気に寂びている。
右:演芸ホール入り口に立てられた歴史展の立て看板。


 

左:展望塔から見下ろしたちびっこホール全景。右下を走るのはモノレールの軌道である。また後方に見えているのは伯爵が二年生の一学期まで通った母校、西宮市立鳴尾中学校。伯爵在学中は左手の鉄筋校舎はまだなく、敗戦直後に建てられた素晴らしい木造校舎であった。
右:いよいよさよなら展を見に入る。前の二人は一緒に行った現代風俗研究会の面々。


 

左:ホールに入ってすぐに掲げられていた、閉園の挨拶文。
右:ホールの二階客席。時代を感じさせる。


 

左:奥のステージにレオポン一家の剥製が飾られている。このようにホール一階席の座席を取り払っての展覧会であった。
右:大正時代の古い地図。中央を南北に流れているのが武庫川で、下三分の一ぐらいのところから左に枝分かれしているのが旧枝川である。この枝川を廃川にし、その跡地を総合的に開発したのが甲子園なのである。

上:とても読み取れないが、阪神パークの歴史の年譜である。


上:甲子園地区の古い地図二枚。いずれも大正時代のものであろう。一番町から十番町まで、計画的に作られた街であることがわかる。下の地図では、川跡の松林が描かれている。今でも阪神甲子園駅南側にごく一部名残の松が残っている。


 

左:かなり古風だが、甲子園遊技場ではなく阪神パークと書かれているので、戦後のものであろうポスター。
右:こちらは戦前、昭和十年のポスター。「四面環海の日本人は魚を正しく認識せよ〜海國日本の誇り〜魚の博覽會」とある。


 

左:伯爵が小学校の頃、1970年代前半のポスター。「ヤングがつどう、ヤングがすべる、ヤングがわらう、ヤングのひろば」というコピーがすごい。思えば永く生きてきたものだ(+_+)。
右:これは伯爵がまだ存在していない頃、戦前の水族館の写真である。ロマネスク調の素晴らしい建物だったようだ。


 

左:上の昭和十年のポスターのアップ。
右:これは戦後が? ビックリハウスの写真。今年(2003年)の春に別府のケーブル楽天地に行った折、今でも同じようなビックリハウスが残っていて感動した。この阪神パークのビックリハウスにも小学生当時何度となく乗ったことがある。

上:かつてはわりと高級な食堂が併設されていたようで、当時の食器と爪楊枝が展示されていた。


 

左:駐車場に観光バスがずらりと並ぶ、昭和三十年代の活況。
右:こちらは伯爵が小学生の頃の、デラックスプールのポスターである。UCC珈琲の宣伝は当時現役捕手であった田淵幸一氏。


 

左:1966年の新車展示会。
右:1956年の猿山の光景。


 

左:レオポンの両親、豹の甲子雄を獅子の園子。二頭合わせて甲子園である。
右:最初に生まれたレオポン、レオ吉とポン子。しかし正式名称はすごい。

 

左:子供時代のレオ吉。
右:両親と戯れる子供レオポン。


 

左:仲睦まじい夫婦。
右:関連の新聞記事も沢山展示されていた。これは1979年の朝日新聞の連載記事だが、朝日新聞ですら「夫を立て育児名人」「賢母」などと旧態依然たるジェンダー意識を一歩も脱却していない古めかしい記事を載せるのだから、時代を感じさせる。64年生まれの伯爵的には、79年なんてそんな昔ではないのだが・・・(^_^;)。


 

左:今回の歴史展の準備をしているところで発見されたという、涙モノの縫いぐるみ。僕と、そして十歳年下の妹の子供時代に活躍していたものだから、僕も確実にこの縫いぐるみの現役時代を見ているはずだ。
右:これは1960年だから僕もまだ生まれていない頃の写真。


 

左・右:ステージ上に勢ぞろいしたレオポン一家。母の園子さんはその昔、檻から檻へ引越しする時に脱走騒ぎを起こしたことがある。多分僕の生まれる前の出来事だが、母校鳴尾中学校の三十年記念誌にも大きく書かれていた。

 

左:デイジー嬢を中心に。
右:レオポン一家の歴史年譜。


 

左:ステージ両袖には花道もあるホールであった。
右」:ステージ前から客席側を見る。


 

左:展覧会場の光景。
右:伯爵が非常にお世話になっている河内厚郎夙川学院短期大学教授の色紙も飾ってあった。


 

左:展示品より、昔のグリコのパッケージ。
右:ちびっこホールロビーより閉鎖された階段を半階ほど上ったところに、「特別室」と書かれた扉があった。


 

左:特別室の扉のアップ。恐らく来賓が訪れたときのための応接室であろう。
右:その右隣の小部屋。

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