旧作補遺和歌山篇U



 

左・右:前章に引き続き、2005年4月23日撮影である。まずは国鉄和歌山線高野口駅。駅舎は木造の近代洋風建築である。奈良の王寺から和歌山を結ぶこの線は、電化こそされているが単線の鄙びたローカル線で、本数も少ない。



 

左・右:駅舎内は結構広い。現在は無人駅である。



 

左・右:ホームの上屋も木造で渋い。



 

左:跨線橋から見た駅舎。
右:電車は二両編成であった。



 

左:なんと、鉄道院の刻印が入った古い柱が保存されていた。明治期のものである。
右:線路の反対側に、特に変哲もない古い木造建築があった。役場か学校か事務所か、田舎では昭和初期まではよく建てられタイプである。



 

左・右:そう思って玄関付近を見て驚いた。アール・デコなのだ。素敵だった。



 

右・左:しかも、高野口駅前にはこれがある。既に旅館としては営業していないのだが、登録有形文化財の「葛城舘」である。1900年と、前々世紀の建築だが、木造三階の威風堂々たるもの。入母屋の屋根で、正面には千鳥破風と唐破風を重ねるという凝った造りで、湯婆婆が出てきそうである。



 

左:木の窓枠に、波打った骨董硝子。
右:側面も全面窓となっている。



 

左:明治時代に、これだけ大きく窓をとった建物というのは和風ながらかなり斬新だったのではなかろうか?
右:跨線橋から撮影。向かって右側の側面は窓がない。各階、庇は瓦ではなく銅葺のようだ。



 

左:正面ファサード全景。車が邪魔だった(-公- ;)。
右:和歌山市内に出る。これは和歌山最大の繁華街、ぶらくり丁の夜の姿。すごくキュビズムな名前のビルがあった。



 

左:こんなところにヒルズ族がwwwwwww。
右:ぶらくり丁中心部にかかる雑賀橋から真田堀にかけて歓楽街なのだが、「和歌山ブルース」に歌われた頃の殷賑は今は昔。このうなぎつりの「大阪屋」はかつての賑わいを偲ばせるレトロなお店である。



 

左・右:スナック「ロンドン」の昭和な看板。70年代前半ぐらいと思われる。



 

左:この「スナック京」は残念ながら廃業してしまったのだが、交番のような赤ランプがついていて、非常に独特のオーラを放っていた。横顔は銀聲舎代表のヒロポンである。
右:「電話回線の売買」も今は殆ど行われなくなったはずだが、こういうお店があった。しかも「縁起の良い」というコピーが泣かせる。



 

左:「アダルトツムラ」ってどんなお店だろう? 検索してもやはり漢方薬の津村順天堂しか出てこなかった。
右:空き部屋を遊ばせておくよりは、ということなのだろうが、マッサージ椅子を並べてあるだけというすごい商売。



 

左:紀陽銀行本店。そんな古い建物でもないが、なかなか面白い。
右:北ぶらくり丁商店街の入口、モダニズムビルヂング風木造建築、「ゴムの太田萬」。「時々開いている」という変わったお店である。昭和40年代までは、人とぶつかりそうなぐらい賑わった通りだそうである。以降の写真は、北ぶらくり丁商店街。



 

左:パール洋装店二階窓の手すり。特注品で、非常に凝っている。
右:パール洋装店の看板。



 

左:ヤマミ洋服店。タイル張りのお洒落なファサードで、書体がまた美しい。
右:れんせんカードというのはぶらくり丁発行のクレジットカードらしい。



 

左:実に力強いキャッチコピーの作業服店。まさにプロレタリアートアートである。ここまで北ぶらくり丁。
右:僕は因縁浅からぬ和歌山に、よそ者ながら愛情を持っているのだが、逆にヒロポンは和歌山人ゆえに地元に仮借ない。かつての賑わいが想像もできない状態になっている今のぶらくり丁について僕は「何とかせねば」と思っているのだが、皮肉屋のヒロポンにかかっては、ぶらくり丁で唯一人が歩いているのがこの「つきじ横町」だということになるσ(^◇^;)。二十世紀の終わり頃までは、大阪駅前にもまだこういう昔の闇市時代を偲ばせるバラックの横丁がところどころ残っていたのだが、全て高層ビル街になってしまった。和歌山・ぶらくり丁の「つきじ横町」は、やはり戦後すぐの建築だと思われるが、「昭和」時代そのままの小さなスタンドバーが並び、恐らくあまり若くはないママさんと、これまた現役世代ではなさそうなおじさんたちを中心とするお客さんによって、確かに今でもそこそこの賑わいを保っているところである。



 

左:つきじ横町の入口。
右:つきじ横町の内部はこんな感じ。いい雰囲気である。お酒を飲まない人間だから、こういうところにはいれないのが困る。



 

左・右:この頃はまだ健在だった、アレンジボールの故「うぐいすホール」。手動パチンコで、盤面の数字をそろえるという、「ビンゴ」形式の遊びであった。



 

左:ここからは翌日の写真と思われる。しかし、この頃使ってたデジカメは色が悪い。これはしかし、場所的にはまたぶらくり丁の路地裏。「ロマン茶屋」という、焼肉屋とは思えない屋号であった。
右:スナックロンドン、大阪屋前から、真田堀越しに見るソープランド街。正面は綺麗に改装され、屋号も今風になっているのだが、屋上を見ると「トルコ御三家」「トルコ病院」そして、「トルコ徳川」など、大昔に消えた「トルコ」の呼称があちこちに残っている。もはや文化遺産である。しかも、徳川御三家の一つ、紀州徳川家の城下町でありながら、「徳川」とつく「施設」はここだけという( ̄□ ̄;)!! 名古屋には徳川美術館が、水戸には徳川博物館があるというのに、紀州徳川家の没落振りは並大抵のものではないようだ(-公- ;)。



 

左:夜は気づかなかった、スナックロンドンの色褪せた看板。勿論ペンキ屋さんの手書きである。
右:意味不明な名前のビル。



 

左:昼間の大阪屋。営業は夜だけである。
右:ソープランド街の外れに、いきなり立派な赤煉瓦の銀行建築があった。既に店舗としては閉鎖されているのだが、和歌山銀行新通支店で、1925(大正14)年の建物である。



 

左:大正後期らしい、ゼセシオン風の幾何学的装飾が施されている。
右:窓のサッシが変えられているのが残念だが、保存、活用が望まれる。



 

左:殆ど廃墟と化しているバラック街もあった。中心市街地なのだがσ(^◇^;)。
右:現役の民家や商店もあって、猫の楽園になっている。可愛い。



 

左:廃墟。猫の下半身、そして僕の影。
右:硝子看板らしい。とってもいい雰囲気の食堂であった。東ぶらくり丁にて。



 

左:ぶらくり丁の住吉神社。鳥居の上に見えているのは、対岸の「病院トルコ」。
右:北ぶらくり丁、「レオナルド」というお店の凝ったファサード。



 

左:いきなり場所が飛ぶが、和歌山県庁本庁舎。1938年竣工だから、「近代建築」としては最も新しいものである。設計は和歌山県技師の増田八郎。この建物以外では聞いたことがないのだが、本庁者の主任設計者になるのだから、当時の内務省の高等技官としてそれなりの立場だったのだろう。
右:戦前までの近代建築の場合、地階が半地下だったり、実際には地上一階に当る地階を持ち、車寄せの石段の上に正面玄関を置き、そこを一階とする例が多く見られる。そして、その一階を後世二階に訂正しているところも多い。ここもその例で、正面玄関にいきなり「二階」と書かれている。つまり、竣工時には鉄筋三階建て地下一階だったのが、地上四階建て扱いになっているのだ。


 

左:これも和歌山城近く、官庁街にある皮膚科の名医、滋野醫院。アール・デコ・スタイルの美しい洋館である。1921(大正10)年の竣工。紀州藩御典醫の家系とのこと。
右:その隣の滋野邸は打って変わってモダニズムの素敵な洋館。



 

左:滋野醫院正面玄関。門扉といい、ステンドグラスといい、実に素敵。
右:これも滋野醫院正面玄関。この石柱は分離派風であった。



 

左:滋野医院のステンドグラス。
右:こちらは濱病院。かなり本格的な、つまり戦前の近代建築に見えるが、なんと戦後のもの。1951年に進駐軍需要を見込んで建てられた洋風のホテル、旧「楽長ホテル」である。しかも大工の棟梁を東京に派遣し、様式建築を学ばせてから建てたというのだから、エピソード的には明治初期の擬洋風建築と同じである。よほどの僻地ならともかく、古い城下町であり、今より都市力もあっただろう、そして県庁はじめ大きな近代建築も沢山あった当時の和歌山で、そんなことありえるのかと思わせる不思議な話である。ともあれすぐにサンフランシスコ講和条約が発効し進駐軍はいなくなったので、病院に転用されて現在に至る。



 

左:ぼやけてしまったが、浜病院の階段。
右:横から見ると、本格的洋館は正面だけで、あとは普通の木造二階建てであることが判る。



 

左・右:これは古い紡績工場の社宅だったという、鷹匠町にある赤煉瓦の長屋。二階は下見板張りの木造である。既に廃墟なのだが、蔦が絡んでいて、物凄く素敵である。前面道路が著しく狭いのが難ではあるが、店舗として活用したら面白い。



 

 

上四枚:神戸辺りにあれば、お洒落なスポットとして再開発できるのだが。空き家も多いし、このまま朽ちさせるのはあまりに惜しい。



 

右・左:また場所が飛ぶ。これは和歌浦地区にある、中原家住宅洋館(大正末築)。紀州青石の、それも小さな粒を用いた、実に個性的な外壁である。



 

左・右:同じく中原邸。このように、街路に面した部分は建物としては裏側で、反対側が正面ということになる。



 

左・右:これも和歌浦。和歌山市政を巡る数々の疑獄の舞台となった料亭旅館、石仙閣。この頃既に廃墟と化していた。勿体ない。



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