和歌山篇W(南海摩登博覧會)



 

左:更に南海摩登博覧会時の写真が続く。2008年11月19日撮影分から。和歌山市は、市街地が広い。戦災がひどかったとはいえ、中心部、和歌山城の南側、中央通に沿って城下町の面影を残す武家地、町方地が並んでいる。まずは真砂丁交叉点南西のエリア、小松原地区から。かつては武家屋敷が並んでいたところであるが、現在でもこのように、戦前に建てられた洋館付数寄屋建築が多数現存している。きちんと調査すれば、相当な登録有形文化財が誕生するはずである。
右:同じエリアにて。そろそろ「ただの空家」から「廃墟」に移行しつつある物件。



 

左・右:同じ廃墟。セメント瓦が懐かしい。セメント瓦は戦後の素材なので、古く見えるがこの廃墟は戦後物件と判断できる。



 

左・右:隣り合う廃墟。「福田○○学園」も久しく人の出入りした気配はなかった。



 

左:非常に昭和戦後レトロな喫茶店、その名も「ファッション」。ここで中央通を渡り、吹上地区に入った。
右:和歌山市出身の数少ない有名人の一人、陸奥宗光伯爵生誕地の



 

左・右:吹上も上級武士が邸宅を構えていた頃の雰囲気を残している。このスクラッチタイル張りの塀のお宅は和歌山市の近代洋風建築として名高いのだが、植木が鬱蒼としていて道路からは玄関ポーチぐらいしか見えなかった。



 

左:相当な規模の邸宅である。
右:その近くに、論評するのをちょっと躊躇う、なんともいえないこういう「豪邸」もあった(´・ω・`)。



 

左:道路に面して事務所だったのか、ひょっとしたら醫院だったかと思われる木造平屋の簡素な建物があるが、その奥に下見板張りの洋館が隠れていた。
右:その洋館。



 

左:単に傾いてきたらあとから補強のためにつけたのだろうが、ゴシック建築のようなバットレス(据壁)を持った塀がユニーク。
右:同じお宅。側面の塀は煉瓦剥き出しだった。しかも、その奥には平屋根の洋館が見えている!!



 

左:洋館のアップ。どうやら居室ではなく蔵である。
右:和歌山ではよく見かける、紀州青石(緑色片岩)の塀。



 

左:塀も門も渋い。庭木で見えないが、大きな数寄屋造りのお宅であった。
右:上品なお屋敷が多いところなのだが、ところどころこういう(´ω`;)な家もある。



 

左・右:こちらは今となっては懐かしい、高度成長期前期と思われるモダンなお宅。建築に「手作り感」と「個性」と「美意識」があったのはこの時代が最後ではないか、と思わせられる。



 

左・右:長屋門、それも大規模で豪壮なものが残されていた。この界隈でもここだけである。家老クラスの重臣の末裔だろうか。



 

左:素晴らしい門であった。
右:更に南下、吹上地区から堀止東地区に入るが、街の雰囲気は変わらない。この数寄屋邸宅にも、このように洋館が附設されていた。



 

左:市営堀止住宅の階段を昇って、上から撮影。上右写真と同じ、お宅、洋館附設数寄屋邸宅である。
右:その西隣も同規模のよく似た住宅であった。



 

左:順番が前後するが、地上から見た洋館のアップ。
右:市営住宅の廊下より見下ろした洋館と玄関。



 

左・右:廊下を西進し、同じ二軒の境界附近を撮影。



 

左・右:更に位置を変えて、同じく市営住宅より北側を見たところ。三角屋根の洋館が張り出している。



 

左:このお宅の場合、最早「洋館附設」ではなく、全体になんとなく和洋折衷で、なおかつ玄関脇には出窓に洋瓦を載せた洋室の存在をうかがわせる造りになっている。
右:市営住宅から南側を見ると、渋い散髪屋さんがあった。



 

左:更に上の階から。
右:再度中央通を渡り、堀止西地区に入る。同じように古い街並みがよく残っているのだが少し下町テイストが加わり、このように昭和な雰囲気のアーケード商店街もあった。



 

左:古い町家。残念ながら空家らしい。
右:その町家に打ち付けられていた古い琺瑯町名表示板。今では今福一丁目なので、この地名は古い時代のもの。マツダランプも懐かしい。日本語の松田さんではなく、アメリカのジェネラル・エレクトリックの登録商標で、日本では東京芝浦電気が製造していたとのこと。



 

左:狭い路地に長屋が連なる下町であった。この看板はペンキで塗られているが、「駿河屋の煉羊羹」である。
右:廃業した散髪屋さんの看板。



 

左・右:路地裏を逍遥していると、この町内地図に出会った。とりあえず眺めると(僕は絶対こういうのを素通りしない人間である)、なんと「郭」というお宅がある!! 和歌山の近代建築で外すことのできない、明治初期の傑作住宅なのだ!!!!!



 

左:ということで、早速郭邸目指して路地を歩く。途中、また美しい緑色片岩の塀があった。
右:非常に狭い路地の奥に、忽然と現れる郭邸(登録有形文化財郭家住宅(旧郭百甫医院)洋館)。滋野家同様紀州藩御典醫の末裔である。なんと明治6年という非常に古いもので、見ての通り、擬洋風コロニアル風の洋館となっている。これだけ早い時期に洋館が建てられ、昭和戦前には本格的な近代建築も多数あった和歌山市なのに、どうして戦後、濱病院を建てるときに建築家に依頼せず、大工の棟梁に頼み、しかも東京にまで遊学させているのか全く不思議なことである。また、明治一桁の希少な文化遺産なのに、重要文化財ではなく登録有形文化財であるのも解せない。



 

左・右:郭邸。前面道路が狭いので、撮影には苦労する。



 

左:郭邸の塀と門柱も紀州青石であった。
右:開放的なバルコニーが頃にある建築の特徴。



 

左・右:門柱の表札。古く明代にに渡来した華僑醫家の末裔という。



 

左・右:更に南下。とにかくこの日は和歌山城南、吹上地区を基点に、延々と南下するという行程であった。郭邸からそれほど遠くないところに、また青石の塀と附設洋館を持つ数寄屋邸宅があった。



 

左:同じお宅。角地だったので回りこむと、ポストがあった。丸ポストでないのが惜しまれる。
右:そのお宅の向かいは空き地で、その隅に戸建住宅としてはミニマムサイズといえる廃屋があった。中は六畳一間と板敷きの台所、ぐらいで風呂はなかろう。セメント瓦だし、戦後すぐに建てられた貸家と思われる。



 

左:同じ廃墟。壁が崩れ、便所が覗いていた。勿論汲取式である。
右:古い錻力看板。褪色しているが、畠中ほねつぎ院と読める。



 

左:同じ看板。塗りつぶされている部分が判読できないが、「○○原電停西入るすぐ(旧兵舎前通バス停前)」「各種保険取り扱い」などと読み取れる。
右:路地を彷徨うと、色々なものに出会う。借金を残して失踪した男の親戚が「財産管理人」となって、その男の自宅を売り払い、それを「明王院」というお寺が買い取ったのだろう。



 

左:その家の屋根には、猫様がいらっしゃった。
右:こちらも非常にモダンで無装飾ながら玄関脇に洋館を持つ和風住宅(数奇屋というほどではないが)。残念ながら空家であった。



 

左:街路より少し敷地が低い不思議な土地だったが、このように玄関脇の洋館には丸窓もあった。洒落ている。
右:今福、堀止西、西高松の境界辺りだが、つまりは旧市街=城下町の武家屋敷街から、大正・昭和初期にかけて開発された「郊外住宅地」へとお屋敷町が続いている。立派な塀のお屋敷。



 

左:非常に凝った造りの美しい塀であった。
右:木々が繁ってよく見えないが、△屋根の本格的な洋館であった。



 

左:石段を少しだけ昇って撮影。何しろ現役の個人住宅なので、そうあからさまには覗き込めない(´・ω・`)
右:同じお宅なのだが、どこから撮っても建物は見えにくい。



 

左・右:一戸建ての貸家があった。バス停は近い。と思ったが、この場所は秋葉山のバス停まで三分で行けるところではない。この家がその貸家というわけではなく、不動産屋さんか大家さんなのだろう。



 

左・右:和歌山市内では唯一のレトロ風呂屋、さいか湯2009年1月3日に入浴しているが、1958年開業と最早戦後派であった。



 

左・右:その並びにある、半ば朽ちつつある店舗長屋。



 

左:その隣にあった、木造二階の大規模な集合住宅。長屋というより、市営住宅か何かと思われる。
右:大規模な近代和風建築があった。教派神道の教会だろうと思ったら。



 

左:案の定、天理教紀陽大教会であった。
右:中央通(42号線)が秋葉山を掠めるところに、街中にいきなり岩の小山があった。ここである。



 

左:少し退いて撮影したらこんな感じ。かなり奇異な光景である。
右:そして高松・新高・松ヶ丘地区のお屋敷町を独りで歩く。この平屋根の洋館は二度目の紹介だと思う。



 

左:同じお宅をうんと退いて撮影。
右:なんだかすごいセンスのケアハウスであった。



 

左:この松ヶ丘コーポラスも当サイト初登場ではないが、この日はなんと、すごいクラシックカーが停まっていた。僕が子供の頃によく見かけたプリンスグロリアA30型(日産グロリアではない)である!!!! 1967年〜1971年にかけて製造されたモデルなので、四十年は経っている。すごい( ̄□ ̄;)!!



 

左・右:いや〜、懐かしくて涙がちょちょぎれるとはこのことであった。しかも今見てもすごくかっこいい。



 

左:いかにも5〜60年代車のデザインであるリア部。
右:数奇屋風長屋があった。なかなかお洒落。



 

左:しかし残念ながら廃墟になりつつあった。
右:同日夜、和歌山じゃんじゃん横丁の喫茶店「ペコーズ」において、南海摩登博覧会のイベント「紅茶講座」が開催された。これは僕がブレンドした伯爵流フレーバーティー。



 

左:11月25日深夜、ヒロポン邸にて手製の伊勢名物手ごね寿司を振舞うきょん姫。
右:11月26日朝、博覧会のとりを飾る吉田稔美展の準備光景。右端が僕なので、これは誰か僕以外の撮影。



 

左:同日午後、ピカピカに磨かれた当時の僕の愛車、アルファロメ男くん。
右:同日夕方、おもちゃ電車に乗って再度たま駅長に会いに行った。きょん姫とラ・リュミエールさんである。



 

左:帽子が脱げてしまって、しかもものすごい目つきのたま駅長ww。
右:こちらはちび助役。



 

左:故・ミーコ助役の在りし日の姿。
右:駅に貼られていたポスター。



 

左・右:駅長室におわしますお三方。



 

左:改札に張られた張り紙。
右:貴志駅にて、謎の授受箱。



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