旧作補遺大阪篇其の拾2005〜2006年撮影分



 

左:2009年4月16日に作成する本章だが、撮影は2005年である。まずは3月7日撮影の一枚。大阪駅桜橋口高速バスターミナルから地下街への入口に、今ではあまり見かけないタイプの古風な表示が残っていた。
右:都市探険家倶楽部の古い仲間、弘津氏と京橋附近を歩いた。これは古い煉瓦塀の工場。(以下3月10日撮影)



 

左:同じ工場。京橋駅の東側、寝屋川の北側に元々の旧鯰江川の堤防だった狭い通りが東西に走っている。その附近である。
右:その近く、京阪の車窓からよく見える戦前と思しき二階建てビルヂング。大阪市都市環境局東野田抽水所である。



 

左:附近の町並み。
右:同じく。いかにも大正末から昭和初期と思しきタイル張りの長屋店舗があった。鯰江川の堤防跡附近である。



 

左:界隈、猥雑な下町商店街なのだが、エアポケットのように古い墓地がある。蒲生墓地である。
右:ちょっと怖いσ(^◇^;)。



 

左・右:大笹家の墓碑銘は非常に変わっていた。



 

左:大笹家の墓。九十年ほど前のものである。
右:バラックの三階建てに見えるが、旧堤防道路に面した二階建てで、墓地側に地下がある。



 

左:「爲忠戰亡靈」って…σ(^◇^;)。「亡霊」ではなく漢文で「亡き霊」なのだけど、それにしても怖い。
右:無縁墓なんだろうけど、それにしてもぞんざいに扱われているお墓があった。



 

左:狭い墓地なのに奥のほうには恐ろしげな一角も。
右:これもバラックに取り込まれたようになってしまっているお墓。



 

左:物凄いところに手洗いが。窓を開けて使うんだろうけど、冬場はすごく寒そうだ。
右:これまた怖い。



 

左:国鉄片町線(学研都市線)の踏切標識。古風な蒸気機関車タイプであった。
右:踏切を渡って南下する。この辺り、疎開道路を北進させる都市計画用地に差し掛かっているので、どんどん取り壊されている。この地図だと本字の時点ではまだ鴫野橋の附近のみ拡張されていない。



 

左:建物が取り壊され、道路になる部分が空き地や駐車場になっている。四年前の写真なので、今はもっと道路が北上しているはず。
右:附近で見つけた、廃バスを用いた集会所。



 

左:寝屋川の南岸、環状線のガードのところになんと古い町家と洋館のある工場があった。この道は環状線のところで行き止まりになっている。※地図
右:拡幅された疎開道路。古い町並みが残った側。反対側は壊されてしまった。



 

左:第二寝屋川と大阪城天守閣。登録有形文化財である。設計は武田五一、竣工は1927年。
右:高度成長期の大規模団地の一つとして有名な、森之宮団地。最近はうあーとかいう変な名前になってしまった旧日本住宅公団の団地である。



 

左:とにかく迫力のある団地。
右:これは携帯での撮影。西区新町、旧新町橋の袂にある謎の近代建築、大阪屋ニュー新町ビルである。1930年代のモダニズムと思しきビルだが、記録がない。後ろ側の阪神高速環状線が旧西横堀川である。(10月19日)



 

左・右:ここから2006年撮影分。これは携帯写真である。4月16日、造幣局の通り抜けへ行った。左の造幣博物館は河合浩蔵設計、1911年の旧火力発電所。右の本館は昭和初期のものである。



 

左・右:戦後すぐ、1950年に建てられた関西ペイント本社ビル。非常に美しい。戦後でもまだこれだけのものが建てられたのだなぁ。設計者は武田五一門下の東畑謙三。さすがである。旧東区伏見町四丁目にあった。なお世界的塗料メーカーである関西ペイント、日本ペイントともに大阪に本社を置いている。ここからは9月10日。この日は結構歩いたが、携帯での撮影である。



 

左:関西ペイント本社ビル全景。四階は建て増しと思われる。残念ながら既に取り壊されてしまった(T_T)。
右:船場にはまだ時々こういう古い町家が残っている。



 

左:これは平野町だったか。確か瓦斯ビルの近くにある三階建ての近代建築。でもひょっとしたら木造町家かも。
右:これは立派な木造三階町家。袖壁もある。1928年に建てられた登録有形文化財北野家住宅である。



 

左:平野町を東進、御堂筋を渡ると「スエヒロ」がある。北新地の旧「スエヒロ朝日」は倒産したが、暖簾分けした全国の分家、別家の援助で再建されている。ここは本家直営ではなく、暖簾分けだったのだろう。
右:こちらは有名物件。当サイトでも既に何度か紹介している、平野町の小川香料ビルヂング。1930年、本間乙彦野設計である、アール・デコの美しいビル。



 

左:平野町通りと藤中橋筋の交差点の新和産業。これも初出ではない。関西ペイント旧本社と同時期かと思われる。
右:東横堀川にかかる平野橋の上から、北西岸をみる。なんと、道路側からでは全然判らなかったが、幾何学装飾のあるモダニズムビルヂング、それも恐らく戦前物件である。界隈は道修町の薬種問屋街だが、これも第一三共ビル別館だった。



 

左・右:正面道路側ファサードはこんな感じ。改装されたのか、これでは近代建築とは気づかない。手前のコンクリートの蔵はなんと塩野義製薬のものだった。



 

左:東横堀川東岸にて。まさかこんな中心部に未舗装の私道があるとは。
右:大手橋の上から見た登録有形文化財岸本瓦町邸。1931年、住友工作部の笹川慎一の設計で建てられた個人邸宅である。



 

左:本町橋から東横堀川の東岸を南下。戦前の木造洋風事務所建築がカフェやデザイン事務所として使われている。
右:中央大通りを南へ渡り、旧熊野街道を南下。古い洋館事務所があった。奥には土蔵も見えている。



 

左:その南隣にはこんな大洋館もあった。華僑の大立者らしい。この辺り、古い太閤下水が現役の下水道として残っていたり、またマンダムや味覚糖の本社があったり、古いエリアである。



 

左・右:長堀通りを渡ると、空堀地区に入る。熊野街道に沿って古い街並みが残っているのだが、暗くなってきて携帯のカメラではこれで限界となった。



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