舊作補遺日本海側篇U



 

左:前章に引き続き、敦賀市立博物館内部から始まる。2007年3月4日、前日に引き続き青春18切符で出かけたのだ。これは三階展示室。銀行時代は講堂等が置かれていたというフロアである。
右:これ、欲しい。「硝子製蠅取り機」である。



 

左:手回し洗濯機。これは初めて見た。
右:階段室。



 

左:そして一階に下りた。
右:「お気楽な玉屋旅館」。何だか楽しい。



 

左・右:そして鶴賀港に至る。港に沿って木造の古い上屋、そして鉄筋コンクリートの古い上屋が並んでいる。



 

左・右:表現主義風の保税上屋であった。



 

左:庇には西班牙瓦が用いられている。相当ハイカラだったことだろう。1933年の竣工とのこと。
右:窓のデザインが非常に特徴的。



 

左・右:同上。



 

左:岸壁側から見た敦賀倉庫。
右:復元された旧敦賀港駅。しかしあまり水準の高い復元ではないのが残念であった。かつては欧亜国際連絡列車のターミナルだったのだ。



 

左:1905明治38)年に紐育スタンダード石油会社の石油貯蔵庫として建てられた煉瓦倉庫。
右:塀も煉瓦塀であった。



 

左:赤煉瓦倉庫の説明板。
右:正面ファサード。ライトアップされるようだ。



 

左:イギリス積みになっている。
右:側面。



 

左:裏手。
右:こんな洋館もあったが、近づけなかったので偽レトロか本物か判らない。



 

左:気比神宮。前を通っただけだが、大きく立派な神社であった。勿論歴史も古く格式も高い。
右:楽器とカメラを扱ってるのか? とてもいいレタリングであった。



 

左・右:とても人懐っこい猫様がいらっしゃった。お可愛くてあらしゃる。



 

左・右:レデイー美容室にて。日本語が全く書かれていないσ(^◇^;)。



 

左:風呂屋でなく、喫茶店なのに「ゆのくに」であった。
右:非常に渋い福助。



 

左:「電化台所」である。「キッチン」ではなく「台所」というちゃんとした日本語が使われている。昭和である。
右:よく判らん松本キャラ。どうやらマゾーンの女王プロメシウムらしい。今思ったが、何だか元素名みたいな人名である。



 

左:ガミラスの敦賀地区本部。ショッカーみたいだ(笑)。
右:ソビエト社会主義共和国連邦領事館址の碑。



 

左:素敵な洋館だったようだ。
右:コカコーラの看板。琺瑯製ではなく錻力製なので赤錆びている。



 

左・右:団地マニアの人が喜びそうな戦後レトロな市営住宅が現役で頑張っていた。裏の建増しが面白い。



 

左:「古跡理容店」である。名字だろうか?
右:駅附近なので鉄道に因んだ地名だろうか? しかし「かなわちょう」なのでもっと古い地名かもしれない。



 

左:ここからは2008年8月1日、山陰を旅したときの写真である。これは高速道路のパーキングから見た大山
右:境港にて。弓ヶ浜半島側から境水道の対岸、島根半島を見る。なお、市名は「さかいみなとし」で、そこに所在する重要港湾は「さかいこう」となっている。境港港ではない。そして市制施行以前の「境町」は「さかまち」であった。なお平成の大合併により、対岸の島根半島はなんと松江市に編入されてしまっている。無茶苦茶というほかない。港としては対岸も含めて境港である。



 

左:岸壁より、境水道大橋を見る。
右:境水道を遡行する船。「水」と大書きされている。なお、日本海と中海を繋ぐ「境水道」だが、行政上は海峡ではなく河川の扱いで、一級河川斐伊川水系の最下流ということになる。



 

左・右:「季刊西の旅」で見たここでお寿司を食べたが、写真を撮ろうと思いついたのは大方食べ終えてからだった(笑)。



 

左・右:港町としては有名だし漁港としては本邦屈指の水揚げ量を誇る境港だが、人口三万五千人ほどの可愛らしい町で、しかも鉄道も「いつ廃止されてもおかしくない非電化単線盲腸線」の国鉄境線が細々と走るだけである。その終点、境港駅前からの「目抜き通り」が水木しげるロードとなっている。相当な猛暑だったこの日も、大勢の観光客が歩いていた。



 

左・右:水木しげるロードの銅像。



 

左:街灯も目玉オヤジになっている。
右:駅からフェリーターミナルに直結していた。韓国、ロシアへの定期航路があるのだ。



 

左:駅前にある旅館「美保の松」。
右:これは鬼太郎か。



 

左:目玉オヤジ。
右:松江市内中心部にて、車窓から慌てて撮影した「東京橋」。「とうきょうばし」ではなく、「ひがしきょうばし」であろう(笑)。



 

左:松江市中心部にて、近代建築が二棟写っている。
右:高速のサービスエリアより宍道湖を望む。境水道〜中海〜大橋川を経由して外海とつながっている、つまり海から相当遠いのに、それでも汽水湖である。元は海だった潟湖で、標高がほぼゼロで水系の流れが非常に緩やかなのだろう。



 

左・右:そして出雲大社へ。



 

左・右:おぉ、さすが出雲大社と思うなかれ。この時は式年遷宮工事中で、これは「御仮殿」なのだ。



 

左:菊竹清訓氏の傑作として名高い「出雲大社の庁」(1963年)だが、前に不細工なものが建てられ、このようにひどい扱いを受けている。
右:本殿が見えている。



 

左:同じ位置からもう一枚。
右:大量のお御籤が結ばれた木々。



 

左:神門。
右:本田の特別拝観中だったのだし、僕はまぁクリスチャンとはいえ日本の伝統建築に興味があるほうではあるが、この時既に午後五時を過ぎていたし、別に翌日出直してまで見るほどのものでは全くないので、この貼紙を撮影しただけであとはパスした。



 

左:物凄く悪趣味なオブジェww。本殿なんかをありがたがって見るより、こういうB級品のほうがよほど面白い(笑)。
右:なかなか雰囲気のある石垣と水路と並木道。



 

左:時代劇のロケに使えそうだ。
右:社家だろうか、国造家だろうか、豪壮な邸宅があった。



 

左:やたら大仰な建物が沢山あった。
右:ファシズム時代に建てられたのだろう、やたらとでかい「国旗掲揚棹」。



 

左・右:重要文化財、旧大社駅舎。駅舎だけは何とか残されたが、国鉄大社線が廃車になってしまったので駅舎だけぽつんと保存されている。1924(大正13)年、曽田甚蔵の設計で建てられた。



 

左:ホームからホームは跨線橋ではなく、このように簡単な踏切で渡るようになっていた。
右:途切れてしまった線路。



 

左・右:現役時代のまま残されているホームと駅舎。しかし些か手入れが悪い。



 

左:この窓口は清算所。
右:国鉄の駅には必ずあった、鳥居型の名所案内。



 

左:ぶった切られた線路。この先、かつては山陰本線につながっていたのだ。
右:これまたえらく保存状態の悪いSLが停まっていた。



 

左:かつての大社線は道路になってしまっている。
右:保存SL。貨物用機関車であるデゴイチことD51であった。



 

左・右:夕暮れの旧出雲駅。



 

左:車寄せの屋根に面白い瓦があった。
右:物凄い積乱雲。



 

左・右:同じ雲。ちょっと禍々しい感じであった。



 

左:翌日、福山市内にて。普通の雑居ビルで、やたら広告が貼られているのだが、上階が円筒状になっているのが面白かった。
右:同じく福山市にて、中国銀行の支店。戦後かもしれないが、中国銀行の多くの支店に見られるタイプのデザインであった。



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