京都篇其ノ貮拾參



 

左・右:前章に引き続き、2010年2月25日撮影の写真で構成する。北野天満宮を出て、日本で最初の路面電車が通っていた一条通の商店街を歩く。このヨコハマタイヤのキャラクターも随分懐かしい。



 

左:京都府警北野待機宿舎、つまり警察官舎の南側の門。このときはまだ「警察の社宅」だと気づかず、普通の団地だと思っていたのだが、それにしてはえらく不釣合いな、古い石の門柱と土塁のような石垣を不思議に思っていた。場所はこの辺り
右:一条通大将軍商店街は境港のように「妖怪ストリート」で商店街おこしをしているようだった。



 

左:非常に壮大な名前の薬局があった。
右:更に回り込んで、この辺りから北野待機宿舎に入ってみた。団地風の住居棟の間から見え隠れする壮大な和風建築の正体を突き止めよう、と思ったのだ。寺院風の建物がどうして団地の間に入っているのか、不思議だったのだ。待機宿舎をんで本門佛立宗大本山清宥寺と同宗宗務本庁があるので、同宗のものだろうか、とそのときまで思い込んでいたのだが。とりあえず、待機宿舎の敷地に明治時代の石碑があった。北野天満宮の鳥居を寄進した記念らしく、碑文は篆書体で非常に読みにくかったが、寄進者名は楷書だったので九条公爵や副島種臣伯爵の名前が読み取れた。



 

左:これがその詳細。上左が九条公爵、続いて副島伯爵である。
右:いよいよ目当ての寺院風建築が見えてきたのだが、近付いて吃驚。現役の建物だと思っていたのに、このように封鎖されていて、しかもただの「空き物件」ではなく、見ての通りかなり廃墟化が進行していたのだ!! 屋根がところどころ抜け落ちて、瓦もずれ始めている。廃墟マニアとしては素晴らしい物件だが、しかし「このまま朽ちさせるにはあまりにも惜しい」名建築である。この東側ファサードが正面かと思われる。



 

左:ここが正面玄関だろうか、「立入禁止 京都府警察本部」と書かれているだけで、この建物が何であるかの説明は全く何一つなかった。この段階まで「近世以前の仏寺」だと思っていたのが、そろそろ「近代和風建築かもしれない」と思い始めていた。
右:庇が落ちそうなので、つっかえ棒が入れられている。



 

左:いやはや、実に勿体ない。それにしても、「非常にリアルな、現実的な団地」と「崩れかけた仏寺風大建築」がこのように並んでいるのは、ある意味超現実的、シュールな光景であった。家族用官舎だけに子供も沢山いるだろう。怖がらないのだろうか?
右:北側側面から見たところ。威風堂々たる大建造物である。後ろは北野待機宿舎の北野寮。これだけ独身寮のようだった。この頃、掲示板などに「京都府警北野待機宿舎」と書いてあったので、ようやく普通の市営住宅や公団住宅ではなく、府警の官舎である」ということに気づいた。



 

左:老朽化、廃墟化が進んできて、怪我人が出ないようにごく近年にフェンスが作られたようだ。
右:この規模、この質の建造物を、補修すらせず朽ちるに任せているとは(´ω`;)



 

左:側面の入口。見ての通り、漆喰が剝がれてきている。
右:「裏」側に回ったら、「正面」と全く同じ造りであった。どちらが正面ということはないのかもしれない。少なくとも外観上は区別がつかない。こちらは西側である。



 

左:名建築なのに全く顧みられず、自転車置き場になっている。
右:こちら側の玄関も反対側と同じく、立派な唐破風を持っていた。



 

左:その唐破風、端から崩れ始めている。
右:玄関前には鳩の糞がこのように堆く積もっている(-公- ;)。



 

左:御前通りからだと、北野寮の裏手にこのように見える。ここから見ただけだと、まさか廃墟だとは思わなかった。結局全く正体不明だったが結局南側の脇玄関に貼られた殆ど褪色して見えない貼紙を一生懸命読み取ると、どうやら柔道場だったらしいことまでは判った。この段階で、「近代建築」であることは確信したのだが、あとは何もわからず。そもそも京都における近代和風建築の武道場といいうと岡崎にある重要文化財武徳殿しか知らないしなぁ、と思って結局帰宅後に色々検索してみた結果、「第二の武徳殿」として建てられた「平安道場」だったと判明。建てられたのは1914(大正3)年だから、96年も経っている貴重な文化遺産、ということになる。1999年に閉鎖されたとあるから、放置されて11年である。11年でここまで荒廃してしまうとは(´ω`;)。保存を要望している市民団体「近代和風建築修復・保存・活用に協力する会」もあるようだが、まだ成果を挙げていないらしい(>_<)。所有者は府らしい。民間ならともかく、行政が文化財級の建築を全く何の補修もせず廃墟化させているなど、許しがたい怠慢である。
右:御前今出川下ルにある「けなし地蔵浄香庵」という曹洞宗の小さなお寺の本堂脇にあったおびんづるさん(賓頭盧尊者)。



 

左:クリスチャンの僕は勿論仏像を崇拝しないけれど、しかしおびんづるさんと言えば撫で仏なのに、ここのおびんづるさんはこのように硝子ケースに鎮座ましましていて、触れなかった。
右:こちらが薄暗い本堂の奥の本尊、けなし地蔵さん。



 

左・右:実はこのような、障子の隙間から拝観したのであった。



 

左:けなし地蔵の三門の提燈。
右:実は一時別行動していた明光庵氏と合流したので、再度平安道場を見にいった。



 

左:先ほどは写真を撮らなかった南側。
右:南側脇玄関に貼られた貼紙二枚。殆ど真っ白に褪色していて非常に読みにくかったのだが、これで柔道場だと判ったのだ。1999年、閉鎖当時のものだろう。



 

左・右:明光庵氏、rjuka君と三人、阪急大宮駅を目指して裏通を歩いた。木製の牛乳箱は雰囲気があっていい。市内局番が二桁だった時代のもの。



 

左:狭い路地なのに、なんと車が入っていた。絶対にこんな道で運転したくない(>_<)。
右:こちらは既に市内局番が三桁だが、それでも「市電八条口電停前」と書いてある。



 

左:非常に軒の低い長屋があった。
右:手書きである。



 

左・右:中立売六軒町の角にあった渋い食堂。



 

左:六軒町通りを下ると「四番町」である。水上勉の傑作「五番町夕霧楼」で有名な、旧番町遊廓なのである。しかし、五條楽園と違い、遊廓時代の街並み、建物は殆ど残っていない。
右:ということで、新築のマンション。名前が「ラピュタ」でロゴも映画のそれにそっくり( ̄□ ̄;)!!



 

左:これが「ラピュタ」全景。京都の景観を台無しにしているひどい建物だが、今の京都は基本的にこういう建物の街である。
右:古いお風呂屋さんが、「石川湯」という屋号そのままにデイサーヴィスセンターになっていた。なかなかよい再活用である。



 

左:昭和の香りが濃厚な素敵な美容院。
右:非常に珍しい名字のお宅。



 

左・右:鍾馗さんと仁丹看板。「番町遊廓」といっても遊廓だったのは五番町、四番町だけなので、ここは旧色里ではない。



 

左:珍しいタイプの長屋があった。
右:琺瑯看板。



 

左:同じ琺瑯看板を斜め横から。
右:フルネームと、その略称が書いてある表札。こんなのは初めて見た。これを屋号に商売してはるんだろうか?



 

左・右:各戸に門を備えた二階建て長屋。長屋としては高級なタイプである。



 

左:日本聖公会ホーリー・トリニティ・チャーチ。
右:つまり日本聖公会京都聖三一教会である。



 

左:聖三一教会。現在の礼拝堂は1930年に建てられたもので、登録有形文化財である。チューダーゴシック風にハーフチンバーを用いた和洋折衷建築といえよう。教会のサイトを見ると「信徒の園部秀治兄の基本設計を基にミッション設計技師バガミネーの設計、大工棟梁宮川庄助の施工で完成した洋風の中に和の技法を忍ばせた2×4(枠組み壁構造)方式の木造二階建で一階を幼稚園に二階を礼拝堂として作られ、ニコルス監督により聖別された」とある。聖公会ではビショップを主教ではなく監督と呼んでいた時代があるのだろうか?
右:教会の斜め向かいには戦前のものと思しき古い倉庫があった。



 

左・右:国鉄山陰本線(JR嵯峨野線)が大きく湾曲するところに、廃墟化した古い長屋があって、その端の一軒は洋館風装飾をまとっていた。



 

左:袋小路になっている未舗装の私道に面している。
右:屋根は抜けつつあるようだ。



 

左:裏に回るとこんな感じ。
右:更に裏。一段高くなっている。端の洋館が一番傷んでいるが、既に全部空家となっているようだ。



 

左:ずっと六軒町通りを南下してきたのだが、ここで千本通りに出た。出世稲荷神社の石柱だが、書家の名前が得多さん。ついつい「危ない」読み方をしそうになってしまったσ(^◇^;)。



 

左:すっかり塗りつぶされた看板。何があったんだろうかと思わされる。
右:親切な立て看板。「通り抜けできませんよ!」と力強く言われては、引き下がるしかない(笑)。勿論徒歩の僕らはずんずん歩いていったが。



 

左・右:国鉄二条駅近く、千本通りに面して建つ福井商店ビルヂング。四階は後の増築である。1930年に京都府購買販売組合連合会事務所として建てられたもの。もう何年も空き家になっているので、ちょっと先行きが危惧される。駅前の一等地だし、隣の倉庫・駐車場も福井商店のものらしい(車が停まっているのでこちらは現役で使われている模様)から客用駐車場も確保できるんだし、お洒落なプチオテル(オーベルジュ)とかファッションビル、レストランなどとして活用してもらいたいものだ。側面に窓を塞いだようなあとがあるが、福助足袋のマークがつけられていた跡とのこと。



 

左:福井商店ビルヂング。東側正面と南面である。様式的にはもうモダニズムだが、丸窓、そしてスクラッチタイルが「つまらない豆腐のようなビル」になってしまうのを防いでいる。
右:洋風のドアが用いられた長屋。珍しい。



 

左:仁丹看板。洛中とはいえ、全域が「上ル、下ル、西入ル、東入ル」で住所が現されるわけではない。
右:ものすごく狭い庭に屋敷神が祀られていた。



 

左:同じ西ノ京地区だが、いよいよ下京區に入った。
右:古い石の門柱が残されていた。



 

左:黒タイル張りのハイカラな町家。
右:壬生の辺りの三條通りはアーケード商店街になっている。そこで見つけた看板建築の外壁に直接かかれた手書きの看板。神戸屋といってもパン屋ではない。



 

左:三條坊城角、同じ建物。派手に塗り分けられているが、洋風長屋店舗である。
右:更に南まで、坊城通りに沿って似た様式の店舗が並んでいる。



 

左・右:大正時代ぐらいだろうか、素朴な洋館の醫院があった。



 

左:仁丹看板。「壬生馬場町 坊城通三條下ル」である。
右:トンネル路地(ろうじ)。



 

左・右:綺麗に改修された町家。この仁丹看板は意識して残されたものだろう。先ほどの仁丹汗顔と違い、こちらは町名のみ。一応「坊城通四條上ル」附近である。洛中の地名は、単独町名だけのエリアは上ル、下ル、東入ル、西入ルで表記し、西ノ京○○町、壬生○○町のように「大地名+町名」の場合は町名のみで表記するのが原則のようだ。京都市の場合、「吉祥院西ノ庄西浦町」などのように三段階になっているところもある。



 

左・右:阪急電車京都本線大宮駅は、土木学会選奨土木遺産に指定されている。1931年開業なので、実は東京の銀座線に次ぎ、二番目の地下鉄道である。その直後の1933年、大阪の御堂筋線が開通している。



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