京都篇其の拾弐(母校同志社)



上:京都篇Kは、旧作補遺である。何しろ作成している今日は2008年も押し迫った12月20日未明なのだが、2005年、前のデジカメで撮影した分なのである。
 ということで、この写真は我が母校同志社大学の近所であり、僕にとっては懐かしい街である。今出川河原町西入ル南側、昭和一桁と思しき看板建築の薬局と、町家が連なっている景観。背後のマンションが著しく醜悪だ。



上:今出川寺町西入ル辺りと記憶している。どうやら最近廃業してしまったようだが、この当時はまだ現役だった古い文具店の琺瑯看板。何しろ旧仮名遣いである。



上:同志社今出川キャンパス最大の講堂であり、同志社大学の式典にも多々使用されている、同志社女子部栄光館。京都帝国大学建築学科初代教授である大建築家武田五一の作品で、1932(昭和7)年の完成。国登録有形文化財である。僕の入学式もここであった。なお、日本基督教団同志社教会の礼拝堂も兼ねている。
 同志社のメインキャンパスである今出川キャンパスは赤煉瓦の近代建築の宝庫で、国指定重要文化財だけでも五棟もある。間違いなく日本一美しいキャンパスであろう。



上:同志社大学啓明館。同志社として二代目の図書館であった。ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で1920(大正9)年に完成。



上:啓明館の玄関ホール。階段の細工が見事である。



 

左:啓明舘の階段。下から見上げたところ。
右:重要文化財同志社大学有終館。これが初代の図書館である旧書籍館(しょしゃくかん)である。同志社の教授であったアメリカ人宣教師D.C.グリーン博士の設計で、なんと1887(明治20)年の完成。そんな昔に、これだけ立派な図書館を持っていたのだ。



上:有終館。正門を入って車寄せロータリーから見たところ。現在の正面玄関はこのように東面しているが、元々は今出川通に面した南側に正面玄関があった。現在はトマソン化している。



 

左:有終館正面玄関。このように、ゴシック様式である。
右:こちらは致遠舘の正面玄関。これもゴシックアーチである。こちらもウィリアム・ヴォーリズの作品で、1918(大正7)年の竣工。建物の命名は同志社創成期の卒業生である徳富蘇峰。暗くて見えにくいが、チューダー・ゴシック・アーチの奥に掲げられている扁額は蘇峰の筆である。



上:致遠館を裏側から見る。



上:ほぼ同じ位置から、角度を変えて撮影。致遠館北面と、啓明館西面が見えている。啓明館手前の小屋は銀行のATM。僕らの時代にはなかったものである。



上:啓明館前にある、新島遺品庫。新島襄先生の遺品が納められている小さな建物も、ウィリアム・ヴォーリズの作品で、1940(昭和15)年との完成。同志社の近代建築では最も新しいものである。



上:国登録有形文化財である、同志社大学アーモスト寮。男子寮で友人が住んでいたので、学生時代はしょっちゅう遊びに行ったものである。ジョージアン・スタイルの瀟洒な洋館で、冬には実際暖炉を用いていた。これもまたヴォーリズの作品、1932(昭和7)年。



 

左:アーモスト寮。本来の玄関は正面である西面にあるのだが、現在はこの北側勝手口が玄関として用いられている。門は西側に開いていて、道路は相国寺道である。同志社の今出川キャンパスはこの南北の短い道路(公道)によって東西に二分されており、東側はもっぱら女子部なのだが、啓明館、遺品庫、アーモスト寮は東側にある。
右:僕らの頃は「宗教センター」とのみ呼ばれていた建物。待辰館というのは近年の命名だろう。相国寺道を挟んでアーモスト寮と向かい合っている。但しこの正面玄関は道路ではなく、キャンパス内、つまり西側に開口している。同志社の建物なのに、どういうわけか来歴不明。赤煉瓦なので普通なら大正一桁以前と考えるのだが、何しろ同志社の建物は全て赤煉瓦で統一されている。煉瓦の流行が終わってから、昭和に入ってからの建物も、アーモスト寮を見れば判るように赤煉瓦なのだ。したがってこの待辰館も昭和に入ってからのものかもしれない。



 

左:待辰館の脇、非常に目立たないところにひっそりと置かれている、第一寮跡の碑。
右:これも重要文化財である。ハリス理化学館の正面。1890(明治23)年に、イギリス人建築家A.N.ハンセルの設計で建てられた。



上:これもハリス理化学館。



 

左:ハリス館の階段。カーブが美しい。
右:同志社の名建築はまだまだあり、重要文化財だけでもチャペル、彰栄館が未収録なのだが、どういうわけだかこの日撮った写真は以上である。ということで、どうやらそのままその足で祇園祭に向かったようだ。この提灯は蟷螂山だと判る。



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